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源氏物語ー融和抄ー黄昏に映ゆる時

 

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
籠(こ)もよ み籠持(こも)ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持(ぶくしも)ち この岳(おか)に 菜摘(なつ)ます兒(こ) 家聞(いえき)かな 告(の)らさね そらみつ大和(やまと)の国(くに)は おしなべて我(われ)こそ居(お)れ しきなべて 我(われ)こそ座(ま)せ 我(われ)にこそは告(の)らめ 家(いえ)をも名(な)をも
現代語訳
美しい籠やヘラを持って、この丘で菜をお摘みのお嬢さん、君はどこの家のお嬢さんなのか教えてくれないか。大和の全てを私が治めているのだ。私こそ教えよう、家柄も名も。

Wikipediaより抜粋

 万葉集の巻頭を飾る歌です。古来より、雄略天皇の求婚歌と伝えられてきました。雄略天皇自身が作ったというより、雄略天皇を象徴するような歌として歌い継がれたということでしょう。
 古代史を調べる中で、何度となく紐解いたこの辺りの事情を、まさか『源氏物語』を通して改めて紡ぎ直す時がくるとは考えもしませんでした。
 呆れるくらいの時間を費やして、馬鹿にも程があるくらいの要領の悪さではありますが、気分的にはそう悪くもなく、むしろ、今ようやく頂上が見えてきて、もう時期に「そらみつやまと」と口ずさめるような、そんな不思議な気分です。

 この歌が示すように、氏素性を名告ることは即ち求婚の証でした。
 そして因果なもので、雄略天皇の宿敵である二人の皇子が、雄略天皇の死後に「我こそはー!(雄略天皇に暗殺された、市辺押磐皇子の遺児である)」と名告りをあげるシーンは、古代史有数の名場面となります。

 乳母の見舞いに訪れた光源氏が、隣家に隠れるように暮らす夕顔の存在に気付き、乳兄弟の惟光を差し向けて、ようよう契りを結ぶことに成功する、という夕顔の段。
 そこに潜むテーマは、名告りです。

 描写的には、ただきっかけが掴めないまま名告り損ねたという流れですが、いつしかお互いに意地になり、とうとう最後まで名告る事なく、夕顔は六条御息所の生霊に取り憑かれ亡くなってしまいます。

 雄略天皇は非常に暴君だったと記紀も伝える人柄ですが、実はこの天皇も生まれた時に宮殿が輝いたと『日本書紀』は伝えます。
 そして万葉集を代表するように、巻頭を飾る御代を統べた人物。
 紫式部の脳裏に、これが一切無かったとは思えません。

 夕顔を連れ出し紛れ込んだ某の院、とは源融の六条河原院のことですが、荒れた庭には忍ぶ草が生えています。こういう所に気がつくと、本当に細部に種や仕掛けを盛り込んでいたのだなという事が分かりますし、歴史上の人物である紫式部が、とても身近に感じられてきます。

 よく知られていることでしょうが、この段にはもうひとつ、「黄昏」のテーマもあります。
 黄昏時、といえば思い出すアニメ映画がありますね。
 「君の名は」も、お互いの名前がどうしても思い出せない、そんなもどかしさが見終えたのちも心に残る映画でした。

 この段も何度かに分けて書いていこうと思いますが、少し時間がかかるかもしれません。古代史的にも、とても大きな謎と繋がっているような気がする為、考察の時間を取りたいと考えています。

 そんな見所満載の夕顔の段ですが、とても面白く気に入っている箇所がありますので、今日はこれを書いておきたく思います。

 契った後もまだお互いに名告りもせず、相手の正体を探り合う中、夕顔の方は相手が光源氏であることは既に分かっています。その様な状況下での歌のやり取りです。

(光源氏→夕顔)
夕露に紐とく花は玉鉾の たよりに見えし縁こそありけれ

夕露に花の開くように私が顔を見せるのは、道であなたに見られた時の縁からでした

(夕顔→光源氏)
光ありと見し夕顔のうは露は たそがれ時のそらめなりけり

あの時光り輝くと見えたお顔は、たそがれ時の見そこないでした。
今お目にかかるとそれほどでも……

 ほのかにそう言う夕顔を、光源氏はなかなか味な事を言うと思うのでした。
 この反応は貴公子の余裕というものでしょうか。とても微笑ましいシーンだと思います。

 この段で、光源氏が夕顔に惹かれる理由として、身分の高い女性には感じられない素直さを強調しています。
 それでいて、頑なに素性を明かさない頑固さを持ち合わせているうえに、この歌のような冗談もさらっと言い流す賢さもある。
 私の目にもとても魅力のある女性に映ります。

 それでも詰め寄る光源氏に、「海人の子ですもの……名告るような氏素性もございませんの」と夕顔は答えます。
 訳者によっては、「下賤のもの」となることもあるこの部分には、当時の身分制のシビアさが浮き立ちます。
 伏線に、雨夜の品定めにおいて、身分の低い女性の中にも良い人がいる、という話が語られている事を証明するものとなっています。

 

 





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