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源氏物語ー融和抄ー河原の語源に迫る①

 中大兄皇子(天智天皇)が、母斉明天皇(皇極天皇)を弔う為に建てたのが奈良県明日香村の川原寺です。このお寺の礎石に使われたのが石山寺から切り出された石なのです。不思議な縁です。
 以前、川原の語源を考えていた時、ただ川の側に在ったからという理由だけではなく、他にもあるのではないかという気がして、よく似た響きの瓦の語源を調べてみました。
 日本においてはその語源は、サンスクリット語のカパーラにあるのではないかという説が有力です。
 カパーラとは、本来は皿や器を意味しますが、人の頭蓋骨で作った盃(カパラ)が宗教儀式に使われた所以から、頭蓋骨や頭部、あるいは額を意味することもあります。
 川原寺は創建当初から瓦葺きの荘厳な寺院だったようです。
 他にも、亀の甲羅をカフラと呼んでいた為というのもあります。明日香村には亀石もありますし、斉明天皇という方は、何か呪術的なイメージが強い方なので、亀の甲羅を焼いて占う亀卜(まじない、占いの手法)の影響も考えられることではあります。

 真鍋大覚は源融に触れる時、たった一行「斉明帝の都は飛鳥川原宮(あすかのかはらのみや)であった」と記します。それが何を意味するものかも何も書かずに。言葉に出来ない思いだけを乗せるかのように。

 源融は平安京の六条河原に邸宅を作りました。
 ここから『儺の國の星』における真鍋大覚の考察をみていきましょう。

 平安時代初期の頃にはまだ、山城国でもどこかを掘れば塩井、即ち陸地の底に封じ込められたかつての干潟の窪地があって、百姓はこれを汲み上げて、野菜類の水洗いと漬物の味付けに活用していたと書いています。

 昔、赤土の事を“みかつち”或いは“みかさ”と言い、水底に沈んだ赤土を掘り起こして土器(かはらけ)を焼きましたが、素焼きの壺を作るのに最良のみかつちが賀茂の河原の下に張っていたと云います。焼き物には海水の成分を長い間に吸収した陶器が最適で、かつ窯から出る煙の向きまで計算したかのように、うまい具合に赤土の地層が出来ていたようです。

 京都の深草という地名もこれが由縁となっており、(人跡未踏の深山を“みやま”と云いますが)、このような地層上に出来た葎蓬の生い茂る河原であって、昔は至る所に展開していた遊水池だったとします。
 これが所謂三角州(delta)で、昔は氏族一同の団欒の場であり、野外の宴席が設けられました。
 このような地は、遡る事、殷の時代では“ひさかりのまつり”即ち夏至の祭礼の境内でした。そしてこれが“さかりば”の語源だとしています。
 深草に隣接する宇治の地が、何か特別な地だったのではないかという私の疑問に、答えが見つかりそうな記述内容でありました。

 また不思議なことに、真鍋大覚は瓦やカパーラなどという言葉には一切触れていないものの、“土器等の焼き物”と河原との関係の深さを詳細な伝承によって見事に解き明かしています。

続く

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