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両想いって素敵な響きですね@読書の感想

「カニャークマリの朝日が観られるなら、映画館に足を運ぼうかな」というのが、映画公開を機に手に取った『四月になれば彼女は』('16.11 文藝春秋刊)を読んでの一言目でした。
それほど求心力のある景色として描かれてる。

私は映画や音楽や文芸に疎い人生を送ってきましたので、川村元気さんが作中に書かれる映画や音楽を知っていれば、作品をもっと読み込めるんだろうかと一歩離れて読み通しました。

物語は、主人公のもとに大学時代の彼女がウユニから差し出したエアメールが届いたところから始まります。
あらすじは、映画の予告をご覧になって何となく想像する通りではありますので割愛しますね。

しかし、重要なのは主人公と元カノとの話ではなく(いや、この話があってこそなんですが)主人公と婚約者との話です。
先日の記事でもつぶやきましたが、婚活している時分もあってこういう二人の話に飢えているところ、どストライクでした。
「私はこの二人の話を求めてたんだ」というのが文庫を読んでの印象です。
(冒頭はあくまでも、映画館に足を運ぶかどうかの感想ということで。)

作中、二人のワンシーン目は、婚約者の放つ「私達の恋愛はもう消えたらしい」から始まります。そこから紆余曲折ありながらラストシーンに繋がると思うと、胸が熱くなります。
幸福感とも安堵感とも違う。
『男性は<初めての男>になりたがり、女性は<最後の女>になりたがる』というのはどこで見知ったのだったか。
(なので、「ラストダンスは私に」の原詞が男性目線と知ったときは、なんてロマンティックな曲だろうと思いました。脱線失礼。)
ともかくそれが思い起こされて、「お互いにとって<最後の異性>になれたらいいよなぁ」と、羨望に近い感覚になったのかも知れません。

申し遅れました。
今回は、両想い羨ましいというつぶやきにのせた読書感想回です。

言葉の響きの甘酸っぱさとは異なり、作品はアダルトに熟成されたものではありますが、想い合えるというのはいくつになっても素敵です。

両想いらしい恋愛をしたのなんて小学生以来ですよ…。
恋愛のときめきは、成長して食べられるものが増えていくに連れ反比例して薄くなってゆくものなんですかね。恋愛でときめく感覚なんてついぞありませんよ。(誰か「歳のせいじゃないよ」って言ってください。)

果たして相手にとっての<最後の異性>になるために、どんな努力をすれば良いのか。炊事洗濯の生活能力やスタイルアップ目的のダイエット習慣はそれをクリアするための必須条件でないことはわかり始めてきた。

孫子の兵法ではありませんが、きっと自分を知るところからなのでしょう。そして「この人」と思える相手がいれば、その人のことをよく知ろうとすること。

あぁ、また頭でっかちに理屈っぽくなってしまった。
治療が一段落したら、また現実的に出会いを求めに行こう。


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