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「すぐおいしい、すごくおいしい」のあれ 【エッセイ】

数か月前に朝の連続テレビ小説の影響で話題になっていたチキンラーメン。
(ドラマ内では「まんぷくラーメン」という名称である。) 

毎日見ていると自分もラーメンを食べたくなってくるのだからドラマの効果は抜群だったと思う。
実際にチキンラーメンの売り上げも伸びたらしい。私も分かりやすく影響されて久々に購入した。ひよこの絵でお馴染みのパッケージの方ではなく、「お椀で食べるチキンラーメン」という小サイズのものだ。小腹が空いたときなどに丁度いい。
久々にこの味を口にして、ふいに小学生の頃の些細な思い出が蘇った。

あれは小学校三年生か四年生のときだ。学校行事でキャンプ合宿があった。
山中にあるキャンプ場のテントで一泊し、自分たちで飯ごうすいさんをするのが目的である。
今はもうそんなことはないと思うが、当時はよく言えば大らか、悪く言えば雑で宿泊するテントはひどい環境だった。
テントの周りには伸び伸びと雑草が生い茂り、虫たちが自由に飛び回っている。おそらく大人四人用のところに小学生七、八人が割り当てられていたのだと思う。とにかく狭い。
ゆったりと寝転べるはずもなく、一番奥から順にぎゅうぎゅうに詰め込むようにして横になるしかなかった。
テントの中は暗く、下には土だらけの板が引かれていて、端には得体のしれないキノコまで生えていた。そんな風だから入口もしっかりとは閉められない。(暗くて怖い上に暑くて窒息しそうだった。)
今晩自分が眠る場所にキノコが生えているという事実は中々に衝撃的で、私はアニメや漫画などで見た、汚い部屋にキノコが……というシーンを思い浮かべ唖然としていた。
主張下手で弱気だった幼い私は入口に一番近い端っこを割り当てられ、すぐ傍に大自然を感じながらもの悲しく眠れぬ夜を過ごした。一刻も早く家に帰りたかった。

あとはぼんやりした記憶なのだけれど、夕食はカレーだった。
火をおこし、煙に塗れながら黒いはんごうでご飯を炊き、野菜を切ってカレーを作る。
危なっかしい手付きで野菜の皮を剥いたり切ったりした。作り方はいい加減だったと思う。
とにかくはんごうに材料を全部入れ火を通す。それだけである。
火の加減もそのとき次第、煮えたかどうかのチェックも味見も一切なし、持ってきたカレーのルーを、これまた分量など気にせずあるだけ放り込み、混ぜる。
その結果。見た目はカレーらしきものができた。
皆で出来た!とはしゃぎ、自分たちで作った焦げ目だらけのご飯とカレーを頬張る。
途端に口の中に嫌な食感が広がった。……おいしくない。
ちっともおいしくない。いや、これはまずい。とにかくまずい。
野菜は生煮え。外側は辛うじてふやけているものの、人参はガリガリ。じゃがいもはゴリゴリ。玉ねぎはザリザリ。水っぽいのに、カレー粉の味だけは濃くて辛い。このとき、私は生煮えの野菜は恐ろしい食感と味がするということを身を持って知った。
他の記憶はおぼろげなのに、カレーがまずかったということだけは鮮明に記憶に刻まれている。今までの人生の中でこの時以上にまずいカレーにはいまだに出会っていない。

翌日はスパケッティを作った。
火を起こし、お湯を沸かし、そこに乾麺とレトルトソースのパッケージを入れる。
はんごうのサイズに合わせて麺を半分に折るという発想がなかったため、容器からはみ出た部分が入れたそばから燃えた。そして焦げた。大惨事である。
煙がもうもうとする中で視界が遮られ、レトルトソースも温まったのか否かよく分からない。
結果。一部が焦げ落ち、アルデンテにも程があるだろうというくらい歯ごたえのある麺に、人肌よりもぬるいソースをちょびっとだけかけた、ミートソーススパゲッテイらしきものが出来た。
泣きそうになるほど、おいしくなかった。

さて、ここからようやくチキンラーメンの出番である。
キャンプ前に「昼食用に各自で好きなカップラーメンを一つ持ってくるように」との連絡があり、皆それぞれカップラーメンを持ってきていた。
ここで小学生の私が選んだのがチキンラーメンである。
母と一緒にスーパーへ行き、あれこれ迷った末にこれにする!と手に取った。カップラーメンを選ぶという行為は遠足のお菓子を選ぶときと同じくらいに楽しかった。
「親が買ってきた」「家にあったものを持ってきた」という子よりも、自分の方が何となくカッコいい気がした。自分で選んだというのが誇らしかったのだと思う。
他にもチキンラーメンを持ってきていた子はたくさんいて、私は一方的に「同じものを選んだ仲間!」なんて感じていた。
列へ並び、蓋を開け、先生にお湯を淹れてもらう。席へ戻りそわそわと出来上がりを待っていると、そこへカップ焼きそばを持っていた子が遅れて戻ってきた。
その子の手にはチキンラーメンがある。あれ?と思った。
カップ焼きそばはお湯を入れた後で湯切りをしなければならない。そのときに失敗して麺も流してしまったのだという。
同じように麺を流した子、落としてしまった子、持ってくるのを忘れた子などのために先生方は予備を用意していた。そう、それもチキンラーメンだったのだ。
失敗した子への予備と自分が選んだものが同じという事実は、私の心をしぼませた。
あんなに迷って選んだのに。自分で考えたのに。これがいいって思ったのに。誇らしかった気持ちはあっという間にどこかへいってしまい、すっかりしょんぼりとしてしまった。
失敗したカレーやスパゲッティに比べるとチキンラーメンはとてもおいしく感じられたのに、全然嬉しくなかった。

そんな、とても些細な思い出。
今の私なら同じ状況でもきっと何とも思わないだろう。けれど、あのとき子どもだった私は小さなことであれこれと心を揺らしていた。
久々に食べたチキンラーメンは、十歳の頃の感情を思い出させてくれた。

例えば、十年後。もしくはそれよりも先。またこの味を口にするとき、私は何か思い出すのだろうか。

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