![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/143622065/rectangle_large_type_2_b1662ebb860d69ec4a3745958d6f24e1.jpeg?width=800)
観察ってなんだろう?
美術解剖学の本が欲しくて、良さげな本を探して調べていくと「美術解剖学の本を模写の為に買う」というのが全く理解出来なくて、凄くモヤモヤしたので、言語化と考察してみました
自分としては、美術解剖学の本は読んで、筋肉や骨の位置や繋がりや構造などを知る、自分の身体を動かしてみたり、触ってみたりしたりして、知識を元に動きや仕組みをイメージする、それをもとに更に理解を深める為に模写したりするイメージなんだけど
読む、学ぶ、イメージをするという工程を無視して模写することを目的に買うってどういう事?
自分自身が模写嫌いなのもあるけど、練習としての模写をオススメしてる人の説明を聞いてモヤモヤする気持ち、本当申し訳ないんだけど、ペンを持って描き写さないと学べない、覚えられない事、それなんかおかしくない?
私は絵を描く情熱もなくて、他のお絵描き練習中の人より圧倒的に練習の数も量も少ない、それでもなんとか少しづつでも上達出来てきてるのは「観察の習慣」が大きいと思う
私のもやもやの原因は”観察”を軽視されれてると感じるからなんだろうな
私にとって観察は凄く重要で自分を支えてくれている力だ
だけど、観察ってなんだろう?と調べてみたら、自分の観察の考え方に凄く近い、分かりやすく言語化されていた記事を見つけて、めちゃくちゃ嬉しくなった、こういう事なんだ!って、いや、本当ありがとうございます
編集者で経営者の佐渡島康平さんの「観察力の鍛え方」という本の抜粋記事(後で本探そう)
創作についての考え方の話ではあるのだけど、私がしてた観察の本質的に近いと感じたんですよね
引用して、記事の内容を要約…を自分で出来る気がしないので、記事と本を読んでとしか言えないんだけど
観察に必要な”仮説”や”問い”の話が目からウロコといいますか
私の話をすると、私が観察を始めたのは、大人の塗り絵で影を塗るためでして
当時の私は塗り絵は影を塗れないといけないものだと思いこんでて、でも影の塗り方なんて調べても見つけられず、苦肉の策で始めたのが”意識してものを見る観察”
とにかく影を知ろうと物を見て、なんかしら気づく、どうしてそうなるか考えてみる
でも教本も一切無く、答えを知らないから、問いに対し「これでこうなってるんじゃないかな」と仮説を立てるしかなかった
で、その仮説を元に、知るために物を見る、仮説と見たものが合わないなら別の要素があるかなど考える、で考えるうちに「じゃ、この場合はどうなるんだ?」って問いが生まれて、仮説を立てて、物を見る、わたしの観察は本当にこの繰り返しで出来ている
佐渡島康平さんのいう”観察”のサイクルがまんますぎて本当にびっくりした
そっか、私の観察は問いと仮説ありきだった
しかも”仮説と対象のズレ”なんて考えたことなかった、凄いなぁ
すればするほど、新たな問いが生まれて、佐渡島さんの言葉通り、まさに無限ループ、”楽しいものだ”というのも「そうなんだよ!」って嬉しくなった、自分にはもう当たり前の習慣だし、楽しいのだ
学ぶために観察するって発想が自分には合わないな、だって漠然としすぎて何を学んでいいかわからないから
でも、この観察をしだしたのは、ある意味テーマのせいでもあるんだろう
光と影を知ろうと、観察を始めて分かったのは、こうしたら光と影を完璧に理解できるなんていう本も講座も存在しない、光と影の見え方には複数の要素が複雑に関わってて、正直全て把握出来てるなんて人多分いないんじゃないかという事
正確な答えを知ること困難で、ほぼ出来ないと分かっているから、分かった気になる事が無い
でも、それが知ろうとすることを諦める理由にはならないから、常に問いと仮説と観察を繰り返して、なんとか仮説をアップデートして、自分なりの方程式を編み出そうと頑張っているのだ
創作に関しても、正確な答えなんて誰も知らない、だからこういう仮説と問いのサイクルが重要になるのかなと思う
練習不足の自分が絵を描く時の”想像”はその方程式で成り立っていて、見てない物を描けないのは当たり前、でも情報を元にある程度方程式に当てはめて推察しすることができる
あとはその推察があってるか確認したり、足りない部分を観察すればいい、模写をするなり、仕組みを知るなり、手で触れてみなるなり、と考えてみるとこれも問い→仮説→観察ではあるのかな
まぁ最後の観察省いて、後で間違いに気がついてうぎゃぁぁってなるのがお約束であるけど(汗)
そもそもの観察の考え方と学び方が違うんだろう
目的ありきで学ぶために観察するのが、美術解剖学の本を模写する人の考え方なんだろう
学ぶために模写をするんだ
自分の場合は、目的に正確な解答があるとは限らないを前提に、とりあえず問を見つけて、仮設と観察を繰り返し、常にアップデートし続ける方程式を作って、目的に合わせてその方程式で仮説を立てる、その仮説を元に観察し理解を深めて、出力する
観察すること、知識を得て活用することと、模写で観察することは、同じ学ぶための手段で同列、だから場合によってはやらなくてもいいし、理解を深めるために模写しようって考えが成り立つ、
だから学ぶためには模写しないと!ってのが理解できなかったのか、なるほどなぁ
学びにおける模写の立ち位置がそもそも違うんだ
私の”方程式を作るための観察”はいつでもどこでも出来るから、”観察の為に描く”時間をある程度省略できる
とはいえ”観察”はインプットなので、アウトプットしないと身につきにくい
アウトプット不足が自分の問題で、これからの課題
ただ、最近落書きと部分模写をそこまでおっくうにはならなくなった
アウトプットしないとインプットを活かしきれないって分かったのもあるのかも
自分は影を塗るための観察だったけど、絵を描く様になったらさらに広がっていた私の観察、これは創作や他の色んなことでも通用するんだって自信が持てた
観察って面白いんだよ
観察をしてて、大きな観察テーマや大きな仮説をたてられた時、見える世界が広がったと感じたり、何を見ても学びになるんだと思えたりして楽しいんだ
1流のクリエイターに自分がなれるとはあまり思わないけど、この観察の面白さ、もっと伝わらないかなぁ、それを実力のあるすごい人が言語化してくれたのが心強いし、ありがたい
後でこの方の著作探してよう、読むの楽しみだ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?