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踊りたいから、踊るんだ。


――踊ったのは、実に4年ぶりだった。

ダンスを始めたのは小学生のとき。

当時、体操スクールに通っていた私は、体操の時間が終わった後、同じスタジオで始まるダンススクールの授業を、部屋の外からじっと眺めていたらしい。

そんな私を見かねて、母がダンスやってみる?
と誘ってくれたのが、始めたきっかけだった。

思えば、私の人生はダンスと共にあった気がする。

小学生から中学三年生までそのダンススクールに通い、高校はダンス部がある学校を選んだ。大学でも、ダンスサークルに所属して、忙しい学生生活の合間を縫って、サークル部屋に行ってはダンスを踊っていた。

社会人になってからは、暫く踊る機会はなかったが、三浦大知のダンスに魅せられて、家で真似して踊ったり、街中で曲がかかれば「あ、この曲踊りやすそう」なんて考える日々。

そんな私が久しぶりに踊った。実に、四年ぶりだった。それはもう無性に、踊りたいという気持ちがどうにも抑えられなくなってしまったのだ。

今回の踊ってみた動画は即興ダンスだ。

https://youtu.be/Y2-iRqWeGS0

※即興=あらかじめ決められた振り付けを踊るのではなく、流れてくる曲に合わせてぶっつけ本番で踊ること

大学にいた頃は、即興ダンスバトルで20秒踊るのに冷や汗ダラダラだった。

が。

今回、4分という長い時間を私は即興で踊り切った。


過去の私は

音に合わせて、欲望のままに自分を曝け出し、踊る喜びではなく

自分のダンスが、いかにダンスとしてきちんとした形を成しているか、うまく踊れているか

そんなふうに考えていた。
要するに、頭でっかちだったのだ。

今回、群青を踊るにあたって

何度か通し練習もしたが、最初の方はやはり『うまく踊れているか』『ダンスとしてきちんとしているか』という方に意識が向いてしまって、なかなかうまく踊りきれなかった。

ただ、回数を重ねるごとに、少しずつその理性の意識よりも、ダンスを踊る、自分を解放する悦びの方が徐々に上回っていき、結局、その日一番最後に撮影したものを、YouTube(1回目の方)にアップした。

結局のところ、ダンスとは、頭ではなく心で表現するものなのだ。

欲望のままに、音に合わせて、ときに、歌詞に合わせて、自分の身体で表現する。あぁ、たのしい。たのしいなぁ。

そうだ。そうそう。そう。私はダンスが好きなのだ。4年も離れていたせいで、ダンススキルは錆びついてしまっただろうけど、ダンスに対する情熱は、何も、変わっていなかった。

まさに歌詞の通り。

見ないフリしても
確かにそこに 今もそこにあるよ

たとえ、踊らない期間があっても、ダンスが好きだという気持ちは、絶対に揺らがず、心の底に常に流れている。

私は、ダンスが、好きで
私は、私のダンスが、誰よりも好きだ。

それでいい。それでいいじゃないか。

好きなら好きで、堂々としていよう。

下手かどうかは、知らんよ。

ただ――踊りたいから、踊るんだ。

そう――私の心が叫んでる。


私にとってダンスは

一瞬で、裸の本能にアクセスできる、熱いツールだ。

小説と共に、私の人生が在るように

きっと、ダンスもまた、私の人生と共に在るのだろう。

小説も、ダンスも、基本的にそれが何か目に見える形で還元されるわけではない。結局のところ、表現というのは、自己満足に過ぎないのだから。

だけれども、自己満足から始まったそれは、私の心を燃え上がらせてくれる。私の身体や心を否応なく突き動かしてくれる。そうして、ペンを手に取り、物語を紡ぎ出したり、曲を流して、身体を振り乱したり。

彼らは『無我夢中』という幸福を、私にもたらしてくれる。

彼らは、私の人生――私の身体と、心と共にある。

ダンスは、私の中のもう一つの心臓だ。

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