マスカットの話

運動会のお弁当が私は大好きだった。運動会は好きではなかったが、あのお弁当の存在は小学生の私にとって宝物も同然だったのだ。お弁当が非日常の代名詞だった小学生時代、母親が腕によりをかけて詰め込んだあの小さな箱の中は、輝く世界がぎっしり詰まった冒険の箱庭のようでもあった。

我が家では、運動会の時のお弁当には必ずマスカットが数粒入っていた。シャインマスカット。名前の通り葡萄とは思えない輝きを放つ翡翠色の粒は、お値段も見た目通り。私はマスカットが2番目に好きな果物なので、運動会が無くなってからというもののせっせと貯めたお小遣いを秋にマスカットへと変えるのが楽しみの一つになった。ちなみに1番目はライチ、3番目はリンゴだ。ライチ、もっと市場に出回って欲しい。横浜の騒々しい中華街で売っているのは、高いしなんだか不安で手が出せない。

そんなマスカットだが、今年は母のブームが訪れているらしく、我が家に毎週のように届いている。冷蔵庫を開けるとあのキラキラとした房がこれでもかと主張してきて、意味もなく開けたくなってしまう。勿論私は大喜びで洗い、数粒カップへ持って紅茶まで淹れて堪能するのだが、少し…ほんの少しだけ、消化不完全な気持ちがある。ここ数週間、マスカットがとにかく甘すぎるのだ。

あまりの値段の高さに近所の安さが売りのスーパーでは、g単位の値段にすることで誤魔化されたりもするシャインマスカット。高い秋空と残暑の陽射しがよく映える黄緑の宝石。皮の薄いシャリっとした食感も、ぷちっと弾ける感触も、なんだかそれだけで自分が高貴な人間になったかのような錯覚を受ける。当然、甘くて美味しい方が良い。というか体感では、いわゆる"ハズレ"があまりない果物なように思う。どれを食べても基本的に期待通りの美味しさがある。だが、今年のは、なんだが甘すぎる気がする。芳醇な香りや爽やかさよりも、砂糖菓子のようなベッタリとした甘みが舌に残るのだ。勿論美味しい。何度も念を押すが、本当に美味しい。けれど、なんだか物足りない。

マスカットを擬人化するならば、間違いなく令嬢なのだ、と私は常々思っている。大切に育てられた、深窓の令嬢。普段はひっそりと避暑地の薄暗い中でその輝きを放ちながらも、陽を浴びることでその輝きを増す、そんな御令嬢。例え甘くなかったとしても、その香りには誇りが感じられ、しっかり自分を貫き、少しつんとしている高嶺の花。そんな姿を私は描いている。
だというのに、ひたすらに甘いマスカットというのは、少しこれと違う気がする。
「私、シャインマスカットよ〜。あなたは、どこから来た方なのかしら?ふふふ、仲良くしてくださいまし。」
こんな感じが、最近私の食べたマスカットからは見受けられる。ふわふわと巻いた髪やスカートが、歩く度に揺れるようなそんなお姫様。一方私が求めているのは、
「たとえ落ちぶれようとも、わたくし、マスカットですの。そう易々と手を伸ばすなんて100年早いですわよ、出直していらっしゃい。」
こんな、高飛車な姿なのだ。そう、極論を言えば、甘くなくてもあの香りさえあれば許される、それがマスカットだと思う。これは私の中ではマスカットだけに許された特権で、例えばライチやリンゴはどんなに香りが良くても、甘くなければ"ハズレ"なのだ。マスカットは、甘くなくても、安易に"ハズレ"とは言えない。あの香りは、それだけマスカットの核たる部分を占めている。フルーツタルトになろうと、ゼリーになろうと、絶対に自分を曲げない強さ。それはやっぱり、香りなのだと、今年は特に感じた。

運動会の日のお弁当箱の中、一際輝きを放つマスカットはみんなの注目の的だった。みんなそれぞれ気合と愛情のたっぷり籠ったお弁当箱を広げる中、おかずの交換会が始まる。当然私のマスカットは、高レートで取引されていたけれど。私には、あれは絶対に譲れないものだった。お金では御令嬢の気持ちは買えないのと同様、あの煌めく果実は他のどんな物にも代えられないものなのだ。