つくみず展行ってきました。つくみず展と全然関係ない話します
「知っているようにしか見えない」とか、「視点を変えることで見えてくるもの」みたいなやつ、あるじゃないですか。
俺はそれがだいすこなんですが、この間読んだ『少女終末旅行』の批評にもそれがあったのでめちゃめちゃアガりました。
『少女終末旅行』はつくみずが描いたタイトルまんまの漫画で、戦争で完全に終了したあとの世界を少女が旅する話です。
この作品を見た時、俺はせいぜい「少女2人しかいないから倫理観が危ういな」ぐらいの感想を抱くことしかできなかったのですが、どうもその批評を書いた人には「生殖未来主義(※1)↔クィア(※2)」という対立の構造が見えていたらしく、それに基づいた論が展開されていました…
(※1、※2 :生殖未来主義は俺も正確には分からなかったのですが、リー・エーデルマンにより提唱された概念で、環境保護に正当性を持たせるために「未来の子供たち」という無邪気な像を持ち出してくるとか、大体そういう感じのやつです。クィアの方はもともと性的少数者全体を包括する用語だったものを、生殖未来主義を拒絶する立場としてエーデルマンが再定義したものらしい。『少女終末旅行』は、ポストアポカリプスものに含まれがちな生殖未来主義的要素をきっぱり拒絶するクィアネスの立場を取っているとかなんとか。知らんが…)
こういうの面白すぎるし怖くもある!
たぶんイメージとしては、色んな思想をやることで、芸術を受容するための感官をいくつも作っていっているような感じじゃないですか。エーデルマンを知っていれば、作品のうちにその思想を感じ取ることができるようになるわけで…
そう考えると、俺の感官が貧しかったばかりにこれまで取りこぼしてきたり、これから取りこぼしていくものがあるんじゃないか?という気がします。
作品を十分に受け止めきれていないというか、俺が感じ取れているのは作者が伝えたかったことの10分の1程度かもしれないというか…とにかく怖すぎる!正直どうしようもないところではあるんでしょうが…
結局のところは死ぬまで勉強し続けるしかないんでしょうね。ただまあ、新しいものに触れられ続けて終わりがないというのは、見方を変えれば幸せなことでもあるのかも…
俺が先月通っていた自動車学校の教員なんかは延々入っては出ていく生徒に同じ授業をし続け、同じビデオを見せ続け、同じ指導をし続け…みたいな感じだったので、あの人たちの世界もそこで完結してしまっていて、先がない感じがしました。それをよしとするかどうかは個人の問題でどっちがいいとかもないと思うんですが、俺はそういう環境に身を置くのはめちゃめちゃ怖いです。変化がないというか、わかりやすく詰んでる気がするというか…
まあそういう感じで、ざっくりまとめると「勉強しなきゃな〜」という話でした。noteはブログとツイッターの真ん中みたいな感じなので、オチもなんの確実性もない思いつきの文章を書けるのがいいですね。これからも適当言っていきたいと思います。毎日適当!(モンキーDルフィ)
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