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ハーマン・メルヴィル「白鯨」

作者とエイハブ船長の執念と情熱と狂気に巻き込まれる超怪作

何度か読んで途中で挫折していたアメリカの19世紀の小説家ハーマン・メルヴィルの代表作「白鯨」を岩波文庫から2004年に出たアメリカ文学者の故八木敏雄氏の翻訳で読了。

いやいや聞きしに勝る巨大な〝超怪作〟だった。

主人公のイシュメールは、エイハブ船長の捕鯨船「ピークオッド号」に乗り組み、巨大な白いマッコウクジラ「モビー・ディック」を延々と追跡する。エイハブ船長は前回の航海でモビー・ディックに片足を食いちぎられており、復讐の鬼になっている。死闘の結果……

こうまとめると、海洋アクション小説のようだが、物語のメインストーリーの記述は全体の3分の1にすぎない。

残りは、鯨にまつわる神話、伝説、宗教、文化、芸術、生物学・解剖学的分析、捕鯨の歴史などなど、19世紀中頃における鯨に関するあらゆる知識・情報が延々と記述されている。

訳注は文庫3巻でなんと約500!読了するのに10日近くもかかったのは、本文を読みながら訳注をチェックしたためだ。

しかし物語とこのおびただしい鯨に関する記述をたどっていくと、メルヴィルがこの作品にかけた執念と情熱が次第に感染してくる。そしてそれはエイハブのモビー・ディックに対する狂気の執念とも二重化され、こちらの精神状態も結構ヤバい感じになってくる。

この作品の最大の魅力は、それを体験することかもしれない。ちょっと若い頃に観た「地獄の黙示録」の体験に少し共通するところがあるような気もした。

母船からボートに乗って鯨に接近して銛を撃ち込み、槍で息の根を止める前近代的な危険極まりない捕鯨の描写もスリリングだが、夥しいサメが群がるなか、仕留めた鯨を解体し、鯨油を取るプロセスの、血腥い熱狂的な描写も壮絶だった。血の興奮と殺戮の快楽がビンビン伝わってくる。

ところで、この作品を読んで、わたしはひとつ、ある誤解をしていたことに気がついた。

白人は鯨を殺して油だけとって肉は捨ててしまう。それに引き換え、日本人は油や肉はもちろん、革や骨やひげまですべてを余さず活用する。白人は鯨の価値がわかってない野蛮人じゃないか、と軽蔑していた。

でもそれは遠洋捕鯨と沿岸捕鯨の差だった。

沿岸捕鯨の場合は、獲物を海岸まで引っ張ってこれる。そこですべての作業ができるけど、遠洋捕鯨の場合はそうは行かない。この頃の捕鯨船は帆船で、巨大な鯨を船上に引き上げることは不可能なのだ。

貴重な鯨脳油を採るために頭部を切断し、脂肪を皮ごと剥ぎ取ると、残りはもう群がるサメにくれてやるしかない。

鯨肉の美味さは乗組員たちも知っていて、作品中も鯨を仕留めた航海士が尾の肉でステーキを作らせ、舌鼓を打つシーンが出てきたり、「美食としての鯨肉」という章もある。

「白鯨」を読むと、この頃のアメリカ人が、鯨を殺すことの意味を深く理解していることに驚きを感じる。

そんなアメリカ人が20世紀後半になるとなぜ「鯨は頭が良くてかわいいから捕鯨は野蛮で残酷」などと反捕鯨キャンペーンを繰り広げることになるのか……。

かなり意外だったのは、この作品の濃厚な同性愛的な色合いだ。

物語の初め、イシュメールは人食い人種の酋長の息子、クイークェグと宿屋で同じベッドで寝る羽目になるが、その結果、2人は非常に深い関係の「こころの友」になる。

実際の性行為の描写はないが、読んでいて「マジか」と息を呑むほど描写がエロティックだった。

しかも物語に女性は1人として登場しない。「moby-dick gay」で検索をかけると、かなりのゲイカルチャーとしての「白鯨」分析がヒットする。

ピークオッド号には、白人のほか、黒人、インディアン、人食い人種などが乗り組んでいるが、彼らの描写を通して感じるのは、メルヴィルが、19世紀半ばの人としてはあらゆる人種的偏見、性的な偏見から完全に自由だったということだ。

特にクイークェグの人物造形は素晴らしく、人食い人種のプリンスに、欧米文化とは関係のない「聖なる高貴さ」を描き出してるのに感銘を受けた。



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