縛りプレイはいいぞ。

ゲームの話です。はい。ちゃんとカテゴリは限定したぞ。
ゲームに限定しなくても良い話なんだけど、私はあくまでゲームを中心に話をしたいのだ。(思わせぶりな表現はあります。苦手な人はすみません。)

冗談は置いといて、本当に縛りプレイはいいぞ。
多分散々言われてるとは思うけども、書きたくなったから殴り書きさせて欲しい。


概要

念のため、ゲームにおいての縛りプレイについて軽く触れておきたい。
一言で言うならば、ゲームのルールには無い独自のルールを設けて遊ぶスタイルのことである。
具体的に言えば、例えばポケモンだと、ある1匹だけでクリアする、ポケモンセンター禁止、レベル1攻略などが挙げられるだろうか。
ゲームをクリアするならば、そのルールを課す必要性は全くないのだけれど、プレイヤーのドM性知的好奇心によって、自らに枷を掛けるスタイルである。
プレイを縛る(制限する)から、縛りプレイと呼ばれている。
縛るプレイかも知れんけど、プレイを縛るって言った方が健全じゃないですか。

ゲームを普通に遊んで、クリアして、楽しいやったー!も当然良い。寧ろ、それで良い。


縛りプレイの意義

では、なぜ人は縛りプレイに好奇心をくすぐられるのかと言えば、通常クリアとは目的意識が全く違うからだ。
クリアの意識をもっと手前に持ってきているだけである。
通常クリアはクリア目標がある程度分かっている。
しかし、縛りプレイは明確なクリア目標があまり存在していない。
なので、語弊を恐れずに大袈裟に言うならば、ゲームのクリアを目指していない。
勿論、その限定した手段でゲームクリアできるのが理想的な状態だとは思うし、もし企画としてやるならば、クリア以外の明確な目標が立てづらいのもあるだろう。
しかし、これが自分の技術向上のためだったらどうだろうか?


縛りプレイと最速クリア

私はSFC版パネポンを狂ったようにやってきた人間である。
ブランクは度々発生していたものの、2024年現在で少なくとも大体26年はやってきたと思う。(SFC版パネポンは1995年発売)
10数年前までは普通にプレイしてきたが、あることをキッカケに縛りプレイというものをやるようになった。
実は、縛りプレイとは何ぞや?ということをあまり知らずにやり始めたので、やはり知的好奇心または向上心から縛りプレイは生まれるものなのだと思う。綺麗に語るならば。
あることをキッカケに、と言ったが、それは何かと言えば、RTAもしくはspeedrunである。
要するに、最速クリアである。

縛りプレイと最速クリアは、イメージとしては恐らく真逆に近いものではないかと思う。
縛りプレイは、あらゆるものを使わずにクリアを目指す。
最速クリアは、あらゆるものを使ってクリアを目指す。
大体こんなイメージではないだろうか。
一見、真逆で結びつかなそうである。
ところが、繰り返しになるが、縛りプレイが自分の技術向上のためだったらどうだろうか?
縛りプレイは、大袈裟に言えばゲームのクリアを目指していないと言ったけども、じゃぁ何のクリアを目指しているのか?と言えば、手段習得のクリアである。

「いやいや、手段の習得なんて通常プレイでもできるでしょ」と思われるかも知れない。
可能か不可能かで問われれば、確かに可能だ。

しかし、少し考えてみて欲しい。
それを本当にあなたは使いこなせているだろうか?
いや、偉そうに言ってるが、私だってパネポンにおいて手段を使いこなせているかどうかなんて、分からない。
それでも、縛りプレイはいいぞ。と言って、自分に手枷足枷を掛けてヒィヒィ言うのである。
傍から見れば、こう言ってはアレだが真性のドM馬鹿のように見える行為だ。
しかし、手段を使いこなそうとするには、実はこれが1番手っ取り早い。

はりつけを想像すれば、恐らく分かりやすい。
磔にされた人は、大体はある一方向にしか視点を向けることができない。
縛る部分が多ければ多いほど、向けることができる視点が限られてくるはずである。
手首を拘束されれば、腕を回すことがほぼ不可能になる、といった感じだ。
そして、自らが磔にされた景色を想像してみて欲しい。
自分の状態にはよると思うが、どんな人が自分を見ているのか、どういう話をしているのかなどを、とても細かく見たり聞いたりしてしまうと思う。
「あの人はこういう服を着ている。性別はどっちだ。声はどんなだ。髪型はどんなだ。笑ってるのか。何が面白くて笑っているのか…。」など、こういった具合だ。
これは何をしているのかと言うと、人の特徴を見ている。
特徴を見ている、ということは、区別をしている。
区別をしている、ということは、差別もしてしまう。
この区別と差別が、手段を使いこなすために必要なのだ。


区別と差別

「区別と差別は違う」と私の高校時代の先生が言っていた。
でも、区別と差別の詳しい違いについては、全く教えてくれなかった。
先生としても、実はどう分別して良いのか分からなかったのかも知れない。
なので、それから10数年後の私がこれらを分別するとしよう。
区別は左右差であり、差別は上下差である、と。
極端に言うならば、区別は可か不可であり、差別は良いか悪いか、である。

可か不可=良いか悪いになるのでは?と思われるかも知れないが、そうではない。
それは、"経験上"できることが良い、できないことが悪い、という、ある種の思い込みから来ている。
なので、区別に関しては、できるかできないか、ただそれだけでしかない。

例えばマリオで言えば、小さいマリオの状態と大きいマリオの状態がある。
小さいマリオの状態は、『1回ダメージを食らうと残機を失う』『1マスの隙間に入ることができる』という特徴を持っている。
大きいマリオの状態は、『1回ダメージを食らうと小さくなる』『1マスの隙間に入ることができない』という特徴を持っている。
これらは特徴であり、ただ区別をしているだけである。
しかし、小さいマリオにおける『1回ダメージを食らうと残機を失う』、大きいマリオにおける『1マスの隙間に入ることができない』を、人間は「悪いこと」として感想を繋げがちだ。
逆も然りである。
これは特徴からの想像や連想ゲームでしかなく、特徴と想像を勝手に結び付けてしまっている。
これは経験上の思い込みに他ならない。

逆に言えば、差別は自分の感想を入れるもの、と言える。
それってあなたの感想ですよね? えぇそうですとも。それで?何か問題でも?という感じ。
人が…もっと言えば生きるものが想いを含ませなければ、本来ならば何事も良いか悪いかなどという判別はできないはずだ。
でも、我々は感情や感覚、経験で、どうしたって物事の良し悪しを決めてしまう。
これは良い悪いの話ではない。そういうものである。

ただ、差別は自分の感想を入れられるものと考えるならば、差別は思い通りに使える、ということでもある。
つまり、状況に応じた変化が可能だ。
抽象的な言い方をしているが、「○○をすると××してしまいます。だから、△△をする必要があったんですね」といった、俗に言うメガトン構文的な考え方である。
○○の特徴は、××というプレイヤーにとって悪いことが起きるから、△△という特徴を利用します、という話である。
なので、「○○をすると」と「だから、△△をする必要があったんですね。」は区別、「××してしまいます。」は差別、と位置付けられる。
これは、視点を変えれば、もしかしたら××はプレイヤーにとって良いことかも知れない。
つまり、差別はプレイヤーの一存で決まる
一存で決まるからこそ、思い通りに使えなければならない。
逆に、区別はプレイヤーの一存では決めることができない。
開発側の一存で決まるものなので、区別はルールである


縛りプレイとは

話を戻すと、なぜ区別と差別ができるようになったかと言えば、磔にされたからである。
縛られて動けない状態にされ、誰がどんな話をしているかをじっと観察し、「俺を見世物にして、どいつもこいつも笑ってやがる。死んでも恨んでやる」などと差別をしている。
動けない状態とは言ったが、視覚と思考は縛られておらず、自由に動いている。
いや、寧ろ動き過ぎているぐらいだ。
一直線に物事を見て、あらゆることを考える。
これは、縛られていない普通の状態では、何だかんだ手遊びをしたり、スマホをいじったり、貧乏ゆすりをしてみたりなど、視覚・思考上でのノイズが多くなってしまう。
しかし、このノイズを除去されている今、磔にされた人は視覚と思考のみを集中的に使っているので、経験をガッポリと稼いでいることになる。
これをゲーム的に言うならば、経験値をある特定のステータスに極端に振っているので、これはいわゆる極振ごくふりである。
つまり、縛りプレイとは、極振りである。

しかし、我々はポケモンなどではなく、人間である。
時間と根気と興味さえあれば、いくらでもポイントを振ることが可能なはずだ。
パラメーターは何ぼ高くたって良いですからね。(差別)
だから、ありとあらゆるところを縛っていく。
そうすれば、区別(ルール)上で差別を適した形で使っていくことができるようになる。
これが私が言うところの使いこなしであり、手段習得だ。
そして、手段の習得は、最速クリアにおいて必要な、あらゆる手段の内の1つの手段を手に入れることと同義になる。

縛って縛ってヒィヒィ言って…そうして、ようやく1つのパーツを手に入れる。
でも、それだけじゃまだ足りない。もっと必要だ。
だから、また違うところを縛っていく。
パズルを解くように、さっきまで動かしていたところを縛ったり、縛っていたところを解いたりして、流れを変えていく。
そうすれば、また違う1つのパーツが手に入る。
1つ1つ集める。
そして、集め切ったときには、あらゆることを自然にやれるようになる。力が要らない。
リラックスした我々の体が最後に求めるのは、あらゆる状況という名のあらゆる刺激である。
刺激に敏感に反応しては、脱力を繰り返す。
これがたまらなく気持ちが良い。

だから、快楽を求めて、今日も進んで磔にされるのだ。


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