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【小説】#16 怪奇探偵 白澤探偵事務所|記憶を辿る時計

あらすじ:普段通りに過ごしていた白澤探偵事務所に突然の依頼が舞い込む。依頼人の別荘にとあるものを届けるという簡単な依頼だが、野田は預かった品物を触らないように白澤に忠告を受ける。理由がわからないまま別荘へ向かう野田が現地で見たものは――。
シリーズ1話はこちら>怪奇探偵白澤探偵事務所

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 冬は寒いと決まっているものだが、今年の冬に限ってはそうではなかった。
 雪が少なく、気温も大きく下がらない。一言で言えば暖冬である。真冬であるはずなのに向日葵が咲いたとか、雪不足でイベントが中止になったとか、そういう話をよく聞いた。なるほど温かい冬なのかと思えば急に雪がちらついたり、しとしととした雨が続いたり、妙な冬という感じだ。
 新宿はといえば、ビル風の冷たさは例年とあまり変わりがない。同じく白澤探偵事務所も昨年と変わらず、年末に鑑定を依頼された品物の返送作業に追われていた。
 鑑定をした品物ひとつずつを丁寧に包み、怪異物ではありませんという簡単な鑑定書と共に段ボールに納める。作業はシンプルなのだが、思いの外数があるうえ依頼人が受け取るのに都合がいい日時と合わせるとかで意外と終わらない。怪異物であると結果が出た品物についてはまた別の作業があるから、三階の倉庫には大小さまざまな怪異物の山が出来ている。
 それでも一つずつを片付けていけば、いずれは終わるはずだ。今日は来客の予定がないから、応接ソファーとテーブルを借りて梱包と送り状を段ボールにひとつずつに貼り付けていく。
 もくもくと荷物を片付けている最中、不意に電話が鳴った。いつもであれば俺が出るところだが、代わりにオーナーが出てくれた。電話の邪魔にならないよう音が出る作業はいったん止め、梱包したものと送り先をもう一度確かめるとか、デスクに残した鑑定書類の続きを書くとか、静かに続けられる別の作業を続ける。
 オーナーの話し声はしばらく続いた。新しい依頼だろうか。いや、午前中であれば営業の電話かもしれない。水だの広告だの、最近はよく電話がかかってきて辟易している。もしそういう面倒な内容なら電話を代わってもらおうと様子を窺っていたが、至極穏やかに通話は終わった。どうやら俺の杞憂だったらしい。
「野田くん、急なんだけど午後からお客様が来ることになったから支度をしてくれるかな?」
「わかりました。他に準備しておくことはあります?」
 俺はとりあえずこのあたりを片付けます、と応接ソファーの周りにある梱包資材をぐるりと指さす。オーナーは口元に手を当てて少し考え込んでから、口を開いた。
「お客様からお預かりする荷物があるのだけれど、触らないように気を付けてくれるかな」
 オーナーからの忠告に、少し驚いた。何かまずいものを預かるのだろうか。怪異物の山を三階の倉庫に寝かせている身としては、何が来るのかと警戒してしまう。
「脅かしてすまないね。少し特殊な事情のあるものみたいだから、念のため」
「はあ、なるほど……気を付けます」
 俺の疑問と不安が思い切り顔に出ていたらしく、オーナーは小さく苦笑した。時計を見る。もうすぐ昼になるところだ。午後の来客であれば、昼休憩の前に片付けを済ませておいたほうが良い。来客に備え、とりあえず資材の片付けを急ぐことにした。
 
 午後二時、約束の時間より少し早く呼び鈴が鳴る。事務所のドアを開けて依頼人を出迎えれば、細身の杖をついた老齢の男性が立っていた。
「先ほどお電話をしたものですが……」
「お伺いしております、こちらへどうぞ」
 老人は片手に紙袋を持っている。新聞紙に包まれた中身が少しだけ頭を出しているが、それが何かまではわからない。杖を預かった流れで紙袋へ触れかけ、オーナーに荷物に触らないように言われたことを思い出して手を止める。念のためではあるが、忠告を受けたのであれば触れるのは避けたほうがいいだろう。紙袋へは触れずに応接ソファーに案内し、オーナーに引き継いだ。
「急にお時間をいただいてしまってすみません。助かります」
「いえ、依頼とあればいつでも……私、白澤探偵事務所の白澤と申します」
 背後に挨拶の気配を感じながら、お茶の用意を急ぐ。俺も挨拶をすべきところではあるが、実際に現場を見てもらうとか、一緒に行動するとかでなければ俺の名刺を渡さなくてもいいということになっている。社会的にどうかは知らないが、俺とオーナーの間でそうなっている、というだけの話だけれど。
 お茶の用意から戻れば、依頼についての話は始まっていた。お茶を出して自分も席につき、話を聞く。まずはこの依頼がどういった内容なのか知らなくてはいけない。
「依頼の内容は先ほどお電話でもお聞きしましたが、こちらの品を別荘の壁にかけなおすということで間違いございませんか?」
「ええ、そうです。一度引き揚げたものなのですが、どうも部屋にあるのがしっくりこなくて……おかしな話なんですけど、急にこれを別荘に戻さなくてはという気持ちになりましてね。自分の足で別荘まで行けば済む話なのですが、近頃は長く歩くのが辛いものでして」
 免許も返納しましたしね、と老人は困ったように笑う。別荘と言うくらいだから、家から近くにあるわけではないのだろう。避暑地とか、景観がいい場所とか、そういうところにいくには足が必要だ。
 自分の代わりにやってほしい、という依頼は珍しいものではない。やってほしいことがもの探しであったり、調査であったりする。今回で言えば、お届け物だろうか。
「こちらが別荘の門の鍵で、もう片方は別荘の鍵です」
 依頼人がポケットから鍵を二本取り出し、テーブルに乗せる。オーナーはどちらが家のものか確認し、それから紙袋の横に置く。紙袋の中身については、まだ話に上がらない。
「では、責任をもってお預かりします」
「別荘はしばらく使っていないので、埃なんかも凄いと思うのですが……よろしくお願いします」
 オーナーが鍵を預かると、依頼人はゆっくりと頭を下げた。オーナーは依頼人へ向けて穏やかに微笑み、お任せくださいとはっきりと言葉にする。ほっとした様子の依頼人を見ると、毎回のようにこの人の困っていることが解決できればいいなと思う。
 依頼を請ける、ということが決まればあとは別荘の場所や鍵の返送方法、現場確認の写真の送付先を控えなくてはならない。用意しておいた書類を片手に、依頼人に記入してほしい事項を説明して用紙とペンを渡し、記入が終わるのを待つ。
 かりかりとボールペンの音がする。記入しているのを見ているのも何だかおかしいような気がして、自分で用意したお茶に口をつけた。不意に、テーブルにおかれたままの紙袋が目に入る。
 依頼人は部屋にあるのがしっくりこないから戻したいと言い、別荘の壁に掛けなおすことを依頼されている。紙袋は片手で持てるサイズで、新聞に包まれた中身の頭がすこしだけ袋の外にはみ出ている。角ばっている、というくらいしかわからない。中身は一体何なのだろう。
 俺が考え込んでいる間に書類への記入は済み、正式に依頼を請け負うことになった。オーナーに書類を確認して問題ないことを確認してもらい、これで事務所でやるべきことはすべて終わった。
「では、後ほどご連絡いたします」
「よろしくお願いします」
 依頼人が小さく頭を下げ、席を立つ。結局袋の中身については話に上がらなかった。最初の電話の時点でオーナーには知らされていたのかもしれないが、俺としてはよくわからないまま依頼が始まった、という感じだ。
 お預かりした杖を渡し、ドアを開けて見送る。依頼人は再び頭を下げ、ひやりとしたビル風の吹く新宿をゆっくりと歩いて去っていく。俺もまた冷たい風に首筋を撫でられ、ぶるりと体が震えた。
「野田くん、明日、レンタカーの手配をお願いしてもいいかな」
 体が冷え切る前に事務所へ戻れば、オーナーに声をかけられる。明日の予定を見る。鑑定物の返却を除けば急ぎの仕事もなく、来客の予定もない。 
「わかりました、朝一でいいすか?」
「構わないよ」
 手配に取り掛かろうと一歩踏み出し、ふと応接テーブルに乗ったままの紙袋が視界に入った。紙袋の中身は、結局まだわからないままだ。触ってはいけないと言われた品物が一体何なのかが気になっている。
「あの紙袋の中身って何すか?」
 そういうと、オーナーは紙袋から新聞紙に包まれた細長い箱状のものを取り出した。包みを解けば、振り子のついた掛け時計が現れる。四角い箱型で、振り子がついている。よく手入れされているのか木目がつやつやしていて、埃一つもついていない。
 どこをどう見ても普通の時計である。触らないように、と注意されるようなものには見えなくて、つい首を傾げてしまった。いや、俺にわからないだけで、きっと触れてはいけない理由はあるのだろう。オーナーは伝えるべきだと思ったことは先に伝えてくれる方だから、今はその時ではないというだけなのだ。
「時計の管理は私の方でしておくから、レンタカーの手配が終わったら梱包の続きに戻って良いからね」
 依頼についての話は一度終わり、とオーナーは掛け時計を再び包んで紙袋にしまった。
「わかりました。それじゃ、準備進めておきますんで」
「私は三階の荷物を何とかしてくるから、何かあったら呼んで」
 わかりました、と返事をして早速移動手段の手配に移った。

 翌日、勤務時間の開始と共に新宿を出た。
 日差しが強く、ほとんど春のような陽気の日だとカーラジオが言っている。依頼人の別荘は山の中腹にあり、新宿よりは冬らしい気候だろうと普段より着込んで来たから寒さに震えることはなさそうだ。カーナビに別荘の住所を打ち込み、助手席に収まった。
「荷物は後部座席に乗せたから。野田くんは鍵とか、書類をお願いしていいかな?」
「わかりました」
 オーナーからこまごまとした荷物を預かり、膝に乗せる。カーナビが行先を読み上げ、ゆっくりと車が走り出した。依頼人の別荘は、東京から車を二時間ほど走らせた温泉地にある。窓の外の景色はビル群から家々を経て田畑が多くなっていった。
 目的地が近づきましたというカーナビの音声が流れるころには背の高い木々が並ぶ山の中だった。目的地と示された場所には、ウッドデッキのついた家が一軒建っている。枯れた草に覆われた駐車スペースに車を止め、先に降りた。
 車から降りた瞬間、冷たい風に頬を撫でられてぶるりと体が震える。春のような陽気は全くなく、真冬の冷え切った風が吹いていた。真っ当な冬の寒さを感じて体が縮こまる。新宿の寒さとは違うなと息を吐けば、薄っすらと白く染まった。
 ダウンジャケットに顔を埋めるようにして門柱へ近寄れば、所有者の名前の書かれたプレートがぶら下がっている。依頼人の名前を見つけ、場所に間違いがないことを確認してから門の鍵を開けた。門の取っ手を回せば、ぎい、と錆びた音と共に玄関ポーチへ上がれるようになった。運転席の窓からこちらを見ているオーナーに手を振る。
「オーナー、門開きました! 家の鍵、開けていいですか?」
「うん、頼むよ。私は時計を持っていくから、家の中には入らずに待っていて」
「了解っす!」
 別荘の鍵と完了報告の写真を撮るためのケータイがポケットにあることを確認して、玄関に向かう。鍵を差し込んで回せば、がちゃりと耳慣れた音がした。
「玄関、開いた?」
「はい。俺も入って大丈夫すか?」
「今のうちは大丈夫。ドアを開けてくれるかい?」
 オーナーに頼まれ、玄関のドアを開く。少し重たい扉ではあったが、すんなりと開いた。
 別荘は、玄関を開けるとすぐに開けたリビングになっていた。壁には小さな暖炉が備え付けられているが灰ひとつなく、フローリングにはうっすらと埃がつもっている。玄関から吹き込む風で、レースのカーテンがふわりと浮き上がった。ウッドデッキに面した大きな窓からは柔らかな光が差し込み、埃がきらきらと光を反射している。
 この別荘を訪ねる人がしばらくいなかったのだろうというのは、すぐにわかった。部屋の中をよく見ればものがほとんどない。キッチンに備え付けられた棚や、リビングに置かれた大きなテーブルと椅子があるくらいだ。気になるところがあるとすれば、柱に日焼けが妙に薄い部分がある。踏み台を使わずに子供が背伸びをすれば届くような高さだ。恐らく、掛け時計はあそこにあったのだろう。
「野田くん、これから始めるから玄関の外に出ていてくれるかな。ドアは閉じなくていいから、そのまま待っていて」
「了解っす」
 玄関の外へ出る。外に出るとひやりとした風に迎えられ、再び体がぶるりと震えた。足を止めて部屋の中を振り返れば、オーナーが見える。玄関とリビングが繋がっている構造だからか外からでも十分リビングの様子は窺えた。
「出ました!」
 室内に声をかければ、ゆるりとオーナーが手を振る。それから、床にあった掛け時計を持ち上げて柱に掛けなおした。
 瞬間、ぼおんと時計が鳴った。思わずびくりと肩が跳ねる。あの時計は電池式だっただろうか。充電部分がないからソーラーということはないだろう。ねじ式だろうか。
 いや、どれも違う。目を瞑らなくても十分にわかる。視えている。時計から光が溢れている。あの時計が自分から針を回しているのだ。眩しさに一度顔を伏せ、目をぎゅっと瞑る。目の前がちかちかする。
 おそるおそる顔を上げれば、リビングの様子が変わっていた。
 がらんとしていたリビングに家具が揃っている。子供が二人、暖かな火が燃える暖炉の前で積み木遊びに興じている。キッチンには女性が立っていて、掛け時計の横に立った男性がリビングを見渡してにっこりと笑っている。その顔立ちは、依頼人に似ているように見えた。
 オーナーは部屋の中に立ったまま、じっと部屋の様子を見ている。中に戻らないほうがいいのはわかるのだが、俺はどうするべきだろうか。玄関の前でおろおろしていたら部屋の中にいたオーナーと目が合った。ウッドデッキの方を指さしながら口を開いた。
「記憶を再生しているだけだから、外で待っていて!」
 オーナーの指さした方を見ると、ウッドデッキには座れそうな丸太が転がっているのが見えた。あそこで座って待っていればすぐ、ということだろう。
 わかりましたと返事をする間にも、部屋の様子はどんどん変わっていく。振り子が揺れてぼおんと音を立てるたびに家の中の様子がどんどん切り替わる。冬から春、春から夏とアルバムのページを捲るような、写真をスクロールしていくような感じだ。
 リビングの様子がまた変わる。子供の背が伸びたのか、掛け時計に手を伸ばして振り子を掴んでぐらぐらと揺らして笑っている。いたずらだ。記憶を再生しているだけだとオーナーは言っていた。これは一体誰の記憶なのだろうか。掛け時計が元の場所に戻ってから始まったから、時計の持つ記憶なのだろうか。別荘の外は強い風が吹いているというのに、リビングのカーテンはぴくりとも動かない。まるでこの別荘だけが時間を遡っているような、不思議な光景だった。
 玄関から離れ、ウッドデッキにある丸太に腰を降ろす。ふうと一息つく間に、蝉の声が聞こえて顔を上げた。
 冬枯れの山が燃えるような緑に染まっている。見上げる空の色は青が濃く、冬の澄んだ青ではない。流れる雲はもったりと厚く、薄く伸びてちぎれたような雲ではない。これも記憶の再生なのだろうか。いや、そもそもこれはおかしいのかおかしくないのかすら俺では判断できない。オーナーを呼ばなくては。
 立ち上がろうとした足が、動かない。ぱちりと瞬きをしたきり、全く動けなくなってしまった。視える。何かがいる。目がちかちかする。眩しい何かに包まれている。声が出せない。オーナーを呼ばないと。思考だけがぐるぐると回る。体が動かないどころか、徐々に目の前が白んできた。まずい、これはまずい、と思う間にも徐々に意識は遠のき――ぷつりと途切れた。

 蝉の声が聞こえる。
 頭上から降り注ぐような蝉時雨に顔を上げれば、目の前を埋め尽くすような鮮やかな緑が眩しくて何度か瞬きをした。見上げる空の色は青が濃く、入道雲がもくもくと空を覆って悠々と流れていく。
 ああ、これは夢だ。悪いものではないな、と直感的に思う。同時に、目を覚まさなくてはいけないとも思う。けれど自分の意思で夢から覚めるには何をすればいいのだろう。わからなくて、呆然と流れる雲を見上げている。
 夢の中なのに、まるで現実のようなじっとりとした暑さがまとわりついている。じわりと額に浮かんだ汗を拭い、濡れた手をシャツの腹に押し付けた。
 ふと、自分の手が妙に小さいことに気が付いた。両手を目の前に並べる。指が短い。手が小さく、手の甲がふっくらしている。他に変わったところがないかと足を見れば、小さい頃に気に入って履いていたサンダルがある。
 なるほど、これは幼いころの夢らしい。どこに座っているのかとあたりを見渡せば、背後に古ぼけた社があったのでぎょっとしてしまった。賽銭箱の文字は消え、拝殿の中央からぶら下がる鈴はすっかり汚れている。かろうじてぶら下がっている鈴緒は色がくすんでいて、ほんの少し不気味だ。
 こんな場所に来たことがあっただろうか。疑問に首をかしげれば、天啓のように言葉が浮かぶ。
 父の実家だ。正しく言えば、妹が産まれるにあたって、兄と共にしばらく父の実家に預けられたことがあった。ひとりで自由に遊びまわる兄を追いかけて外に出たはいいが、追い付けもせず、慣れない場所で迷子になるのは珍しくなかった。大体見慣れない子供を見つけた少年やら、畑仕事のご婦人に連れられて父の実家まで帰っていた気がする。ただ、この古ぼけた神社に見覚えはなかった。
 迷子なのだ、と自分の状況が理解出来たら急に心細くなってきた。ひとりだ。夢を見ているのは大人の俺なのだが、幼いころの記憶だからなのか、体が子供そのもだからなのか、じわじわと不安が押し寄せてくる。
 ここはどこなのか、どうしてひとりきりなのか、帰りたいけれど帰れない不安に苛まれて俯いていたら、目の前が急に暗くなった。白い靴が見える。つま先の尖った革靴だ。
 誰かが立っているのだと気が付いて、顔を上げた。突然目の前に現れた人を見上げたが、顔がぼやけていてはっきり見えない。逆光でよく視えなかったのか、覚えていないのか、どちらだろうか。
「ぼく、どうしたの」
「……まいご」
 声がするりと出た。俺の意志で喋ったというよりは、当時そういう受け答えをしたのだろう、という感じだ。
「一人で居て、泣かなかったんだ。えらいね」
 汗で濡れた髪を梳き、ぐりぐりと頭を撫でられる。その人は右手ではなく、左手で俺を撫でた。流れる汗が気になったのか、当時の俺が泣いていたからなのか、撫でる手が離れて頬に触れた。ぐい、と手のひらで右の頬を拭われた瞬間、頬から額にかけて小さな痛みが走る。
 あっ、と声を上げかけて、急に蝉の声が遠くなった。目が覚める。意識が戻る感覚が、はっきりわかった。

「野田くん、大丈夫?」
 目が覚めたら、オーナーが俺の頬に触れていた。冷たい指先に驚いてびくりと距離を取れば、オーナーは表情を緩めて立ち上がる。顔を上げれば、景色は冬の山に戻っている。蝉の鳴き声も聞こえないし、空の色は澄んだ青だ。
「よかった。ぼうっとしてて返事がなかったから、驚いたよ」
「……時計は……」
 ぼんやりと口に出せば、オーナーがリビングの方をちらりと見る。視線を追って同じようにリビングを見たが、カーテンに阻まれて中の様子まではわからなかった。
「もう済んだよ、色々黙ったままですまなかったね。説明をしよう」
 オーナーは俺の向かいに転がっていた丸太に腰を下ろし、掛け時計について話し始めた。びゅうと山から風が降りてくる。冷たさは、今は気にならなかった。
「あの掛け時計は自分の意思を持っているようでね。この別荘に居て、この別荘で得た思い出をとても大切に思っていたみたいなんだ。ただ、ずっとここに居られたらいいなと思っていたものが人間の都合で場所を移すことになって、どうしてもここに帰りたくなってしまった」
 壁に掛けられた時計と、再生された記憶を思い出す。やはりあれは時計の持つ記憶だったのだ。
「ものは自分で移動できないから、誰かの手を借りる必要がある。そこであの時計は、自分に触れた人に念を送って、ここに帰ろうとしたわけなんだ」
 テレパシーと言ってもいいかな、とオーナーは言葉を付け足す。確かに、別荘の様子から見てもう一度ここに時計をかける理由を依頼人は持っていないのだから、そうなるように働きかけるのが最も確実だ。
「害はないけれど人に働きかける力を持っているものだから、野田くんには触れるのを避けてもらったんだ」
「はあ、なるほど……そこまでして帰りたかったんすねえ」
 意思があっても喋ることはできないし、手足がないから動くことはできない。それでもこの場所に帰りたかったのだろう掛け時計のことを考えると、そんなに大切な思い出があるということ自体が少し羨ましいような気持ちになる。
「野田くん、さっきぼんやりしていたけれど、何かあった?」
「あ、いや……何か、夢みたいなのが見えて」
 ついさっき体験したことを話せば、オーナーは小さく首を傾げた。目が覚めてみると、本当にそんなことがあったのかどうかもわからなくなる。単純に待っている間に居眠りをしただけなのかもしれない。
「当てられてしまったかな……私が見る限りでは問題はなさそうだけど、野田くんが気になるなら事務所で詳しく視てみようか?」
 立ち上がる。頬をぴしゃりと叩くと、ちゃんと傷みがあった。頬へ触れる。傷跡のざらりとした感触はいつも通りで、特に変わった様子はない。動けないわけでもないし、呼吸もできる。何かに包まれているように感じた理由は、掛け時計の過去の記憶のせいなのかもしれない。
 目を瞑る。今は、何の気配も感じない。
「体に違和感があるわけじゃないんで、大丈夫です」
「そう。それじゃ、帰ろうか」
 オーナーが先にウッドデッキを降りる。後に続いて、俺も降りた。次いで別荘から出て門の鍵を閉める。来た時と同じように、かちりと小さな音がした。
 今更になって、さっき見た夢に違和感を覚えた。顔の傷は事故で負ったものだと聞かされている。いつ、どこでとは聞いていない。あの夏にあったことなのだろうか。いや、それも夢の中だから都合よく記憶を捻じ曲げているのかもしれない。
 車まで戻る最中、かすかに蝉の声が聞こえた気がして振り返った。そこには無人の別荘しかない。
「野田くん、もう行くよ」
「はい!」
 たぶん、気のせいだろう。オーナーに呼ばれて、慌てて車へ乗り込む。びゅうと冷たい風に首筋を撫でられた。山は冬の装いのままで、じっとりとした夏の気配はどこにもなかった。

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