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【小説】#16.5 怪奇探偵 白澤探偵事務所|記憶を辿る時計|閑話

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 大人になってから、誰かと額を合わせるようなことがあっただろうか。いやない。ないと断言できる。妹弟の面倒を見ていたころはじゃれて額で熱を測るみたいなことをやったものだが、今や遠い昔だ。
 事務所に帰ってすぐ、白澤さんが俺を診てくれるというので申し出に甘えてお願いした。結果、こうして額を合わせてじっとしている。白澤さんは視るのが苦手だから、直接触れながら視るのが一番いいということでこうなった。
「うん、念のため視てみたけど何にもないね」
「そっすか。よかった」
「ものがものだったから、精神に直接影響があったのかもと思ったけど」
 そうではなかったね、と言って白澤さんはソファーに腰を降ろした。俺はクッションを適当に捏ねて、体を沈める。特に仕事らしい仕事をしたわけではなかったけれど、変な夢を見たせいもあってかどっと疲れた。
「思い出ってあんなに強く心を動かすもんなんすね……」
 思い入れのある場所に帰りたいという掛け時計が人を動かす。今日あったことを言葉にするとそうなるのだが、何とも不思議な感じだ。ただその場にあるだけの時計が、場所に愛着を持っていたというのは意外だった。ここでなければならない、と相当強く思っていたのだろう。
「そうだね……思い出とか、愛着とか、色々あるんだろう」
「……白澤さんは、何かそういうのありますか?」
 俺はあんまり思いつかなくて、と付け加えれば、白澤さんは色付きレンズの向こうで目を丸くした。それから腕を組んで考え込んでから、何かを思いついたように口を開いた。
「大切な思い出というのとは少し違うけれど、野田くんのコイン当てはよく覚えてるよ」
「え、俺ですか」
 そこで自分の名前が出てくるとは、正直思っていなかった。白澤さんは俺よりずっと長く生きているだろうから、俺の知らない心に残るようなものがないかと思って聞いたのだが、予想外の答えだ。
「人間でここまで当てられる子は少ないからね。いい子が見つかったなと思って」
「ああ、そういう……」
 白澤さんが目を細め、助手になるかもという人が見つかったのは良い記憶だったと呟く。自分が話題にされていると、何となく気恥ずかしくなってしまうのはなぜなのだろう。とにかくそれはわかったと話題の切れ目を探しているのだが、中断するのもおかしい気がして所在なくクッションをもちもちと捏ねた。
「野田くんにはある?」
「俺ですか? ……俺は、まあ……ここに来てからはいい記憶しかないですけど」
「そうなんだ。それはいいことだね」
 人と話す。仕事をする。やりがいも手ごたえも、この仕事に就くまでは縁が遠かった。人との付き合いもそうだ。誰とも長続きしないし、遠ざけてしまう。それがこうして言葉を交わす人がいるのだから、案外この日々が後々に良い思い出になるのかもしれないと思ってクッションに沈み込んだ。