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【小説】#5 怪奇探偵 白澤探偵事務所|仮面の少年

あらすじ:仕事納めに納会を兼ねた忘年パーティへと出かけた白澤と野田。白澤に「会場内で酒を飲まないように」と言われていた野田だが、仮面をつけた少年と出会い……?
※濁していますが嘔吐描写が少しだけあります。
※シリーズ1話目はこちら

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 新宿の街並みを見ているとカレンダーはいらないのではないか、と思うことがある。
 クリスマスが終わった瞬間から今年も残すところあと僅かとなりましたが……と街頭の巨大ビジョンが言い始め、街並みを彩る装飾から緑が消えて紅白と毛筆の垂れ幕に入れ替わる。年始になると、賀正だの来年の干支だのが加わり、次はバレンタインデー、その次はホワイトデー、と延々と続くのだから、年間カレンダーのようなものかもしれない。
 事務所の中も無限に続くと思われた書類の山がようやく落ち着き、オーナーの机の上も随分すっきりした。請求書の発送から年賀はがきの宛名リスト、怪異に対しての魔除け札なんてものまで広がっていた。魔除け札は今まで俺の目につかないところで管理していたらしく、前回の家の一件があってから、事務所の中で目にすることが増えたように思う。
「午後から外出があります」
「どうしたんですかオーナー、改まって……」
 タイムカードを切ると、机に積んである呪符をまとめていたオーナーがにっこりと微笑みながら予告をした。ただの外出にしては畏まった言葉に思わずカレンダーを見上げてしまう。依頼人の予定はなく、外出としか書いていない。
「納会も兼ねた忘年パーティがあってね、野田くんに会わせたい人がいるから同行してほしいんだ」
「パーティって……この事務所、俺とオーナーしかいないのにどこへ行くんですか?」
「同業者の組合というか、まあお世話になってるところだね……ほら、この間のスーツと靴のところみたいな感じ」
 スーツと靴と聞いて思い出したのは、まだ三階の倉庫掃除に苦戦していた頃のことだ。

 段ボールの山で足の踏み場がなく、動けば詰みあがった本が崩れる。掃除中にまた妙なものでも見つかるのではないかとヒヤヒヤしながら倉庫の掃除に取り組んでいた。
 手近にある可燃と不燃、段ボールをまとめ、邪魔になってきたら外に出す。ゴミ出しに外に出るたび道行くサラリーマンをつい目で追ってしまう。
 新宿はそこかしこにスーツのサラリーマンが溢れている。今は動きやすさを優先してジャージでいるが、オーナーも勤務中はスーツでいることが多い。今後探偵助手をするならスーツを用意したほうが良いのだろうか。
 その疑問を解消する機会はすぐにやってきた。
「別に今のままでも問題ないけれど」
 オーナーは昼食の天ぷらそばに乗った大ぶりな海老を齧りながら言った。ボリュームのある昼食を、細身のオーナーがぺろりと平らげる。時々こうして昼食に連れて行ってもらうのだが、その度食いっぷりが良いので結構驚く。ご相伴預かる身で言うことではないが。
「でも、スーツと靴は一式あったほうがいいね」
「俺、リクルートスーツも持ってないんですけど、ああいうのってどこで買うものなんです?」
 今まで、アルバイトの面接において、スーツを着てこいと言われることなんてなかった。成人式に出る機会があれば持っていただろうが、生憎成人より前に家を出ていてそれにも縁がない。
「これから作りにいこうか」
「作りに?」 
「野田くんは身体が大きいから、既製品から探すより作った方が身体に合うと思う」
 いわゆるオーダーメイドというやつだろうか。一瞬、貯金額を考えて視線をそらしてしまった。価格帯が全く想像できない世界だ。向かいに座っていたオーナーがそば湯を飲みながら、あっと声を上げる。
「経費から出すから安心して、君は心配しなくていいから」
「……なんかその、すいません」
 まだ助手らしいことも出来ていないのに、引っ越しから何からすべて甘えてしまっている。経費でと言われてはではお世話になります以外の言葉もなく、そのままオーナーのツテがあるという店へと向かった。
 価格が店のどこにも書いていないオーダーメイドスーツの店は完全に今までの人生と切り離された空間で、緊張のせいか細部を思い出せない。靴も作るからと全身くまなく計測されたのも驚きだった。右足より左足の方が少し大きいとか、こんなことでもなければ一生知らなかったと思う。
 計測の後はスーツの生地も、デザインも、全てオーナーが決めてくれ、完成したらご連絡しますという言葉と共に店を出た。完成が楽しみだねというオーナーの言葉に何と返事をしたかもあやふやだ。

 今思い出しても、なかなかインパクトのある体験だった。
「スーツと靴は引き取ってきたから、後で袖を通してみて」
「了解です」
 パーティにはドレスコードというものが存在するらしい。先月のうちにきちんとした服を作って貰っていてよかったというか、思ったより早く出番が来てしまったというか。
「……ネクタイ、結んであげようか?」
「教えてくれたら覚えますんで!」
 ネクタイの結び方からパーティの簡単なお作法まで、後でしっかり聞いておかなくては。何しろ助手としてオーナーに恥をかかせるわけにはいかない。結局値段を知らないスーツや靴の出番を考え、出発までに済ませなければならない仕事へ取りかかった。

 オーナーに連れられ、納会が行われるというホテルへやってきた。街並みから離れ、緑の多い静寂としたホテルは高級感があり、慣れないスーツを着ていることもあってアウェイの空気を感じる。
「似合ってるよ、男前だ」
 オーナーに教わってネクタイを締めたが、二度目は出来ない気がする。慣れない襟の感触が息苦しいがスーツは驚くほど体にぴったりで不快感はなく、自分の姿が鏡やガラスに映るたびにまじまじと見つめてしまう。何というか、ちょっといかつすぎるのではないかと。
「なんか、あの……用心棒とかSPみたいな感じじゃないですか?」
「ふふ、逞しい感じはするかもね」
 武道経験はないが、体格は立派な方だという自覚があるからいざとなれば何かは出来ると思う。何か、が俺の理解が及ぶものであればの話だが。
「野田くん、パーティの注意事項を一つ伝えておきたいんだけど……」
 招待状を手にフロアからフロアへ移動を続ける。宴会場のあるフロアを通り過ぎ、どんどん奥へと進んでいく。小さな会合なのか、大きな会合なのか、想像ができない。オーナーは毎年ここだからと特に何を気に留めることもないし、ホテル従業員も同じようで誰にも声をかけられない。
「会場にあるお酒は、どれも飲まないように」
「あ、お仕事中だから?」
「いや、ご飯は食べていいよ。でもお酒はだめ」
 仕事の一環として来たとはいえ、飲食が全くできないのでは残念だなあと考えていたのがばれたのではと少しヒヤッとした。お酒は飲まない以外は、はぐれないように着いてくるように言われたくらいで他に注意されたことはなかった。
「こういう仕事だから顔を見せたくないって人も参加しててね、仮面舞踏会みたいになってるけどあんまり驚かないように」
「オーナーは顔隠します?」
「私はもう結構割れてるから……あった、このドアだ」
 スタッフルーム、と札の下がったドアがある。え、と声を出す間もなくオーナーがそれを開け、さらに奥へと進む。こんなところに宴会場なんてあるものなのか、と驚いてるうちにもう一枚ドアが現れ、それを開くと華やかなパーティ会場が広がった。
「一般人が間違って入ってくると面倒だからね、毎年こんな感じ」
「思ったより人が居るんですね、驚きました」
 同業者、と聞いて三十人程度の立食パーティを想像していたのだが、その三倍はありそうな規模だ。老若男女入り乱れているし、オーナーから聞いていた通り仮面をつけた人も少なくない。比率として仮面の方が少し多いほどだ。
 新たな来客に気付いたフロアスタッフがドリンクを手渡してくる。オーナーはそのうちの一つを受け取り、俺に持たせるためにソフトドリンクを頼んだようだった。人の少ないテーブルの近くへ寄り、ドリンクを待つ。
「白澤くん、ようやく来たね!」
 背後から声をかけられ、思わずびくりと体が跳ねた。オーナーはといえば、俺の後ろをちらと見てにっこりと微笑んでいる。知り合いがいるらしく、慌てて振り向くと小柄で丸っこいシルエットの男性がちょこんと立っていた。前髪が長くてパッと見て年齢が判別できない。
「ご無沙汰してます、丸井さん」
「この子が前に話してた助手くんかな? 初めまして~、丸井 航(まるい わたる)って言います」
「野田ひろみです」
 差し出された手を握り返せば、ぶんぶんと元気よく握り返された。助手として勤め始めてから、顔の傷跡に怯えられることはほとんどなくなった。丸井さんが全く気にしている様子がなくて、内心ほっとしている。
「野田くん、ドリンク」
「あ、すいません」
 いつの間にかドリンクが届いていたらしく、オーナーから一つを手渡された。お酒は飲まない。これだけはしっかり覚えておかなくては。
「視えるタイプの子なんでしょ? あれ、やってみてもいい?」
「今回だけでお願いしますね」
「やったあ! 野田くん、このコイン見たことあるかな? どっちの手に入ってるか当てられる?」
 丸井さんはポケットから黒いポーチを取り出し、その中から見覚えのあるコインを取り出した。うわ、と声に出しかけて喉で留める。あの時に遭遇したコインと同じものだ。ちゃんと管理されていれば危ないものではない、とオーナーが前に言っていた気がするけれど、持ち歩いている人は初めて見た。
「じゃ、目を瞑って」
「はい」
 目を瞑ると、近くにぼんやりと明るく感じるものがある。右、左と光が移動するからこれがコインと見ていいだろう。会場自体が明るいというか、あまりにいろんなものが眩しくて目を瞑っているのが少し辛くなったあたりで、目を開けてと声をかけられた。丸井さんが両手を丸く握って、わくわくしながら俺を見ている。コインのものらしい光は、丸井さんの手のあたりではなく、ポケットのあたりで止まっていた。
「手の中にはないですよね?」
「野田くん、すごいねえ! あっ思い出した、視る系で頼めそうな仕事があって……野田くん、ちょっと白澤くん借りるね!」
 お仕事の相談だから、すぐに返すから、と言って丸井さんはオーナーを引きずって行ってしまった。視る系のお仕事というワードが気にならないわけではなかったが、実際に仕事になればオーナーに聞けばわかることだから今は気にしなくても良さそうだ。
 せっかくパーティなのだし、とテーブルに用意されたフードに手を伸ばす。手に取りやすいフィンガーフードが中心のあたり、会話を楽しんでもらおうという主旨が表れているように感じた。大体何でも美味い。サーモンマリネとクリームチーズは家でも出来そうだから覚えて帰ろう。ハムとレタスのロールサンドへ手を伸ばしたところで小さな手とぶつかりそうになり、視線を下げれば仮面をつけた少年がこちらを見上げていた。
「お兄さん、どうぞ?」
 同じものを取ろうとしていたらしい。最後の一つというわけでもないので、お互いに譲り合う空気を避けてありがとうと一つを摘まんだ。追って、少年もロールサンドを摘まみ上げる。
 周りを見渡す。少年の近くに親らしい人の姿は見えず、探しているような人間も見えない。仮面をつけているということはこのパーティの参加者だろうが、一人、というところが引っかかった。
「……君、迷子かい?」
「いえ、人を待っているんです。お兄さんもですか?」
「そうだね、お兄さんも人を待ってるところ」
 人を待っているとしたら保護者だろうか。パーティに参加しているくらいだから、この少年もまた何か特別な仕事をしているのかもしれない。少年ほどの年頃の子供に怖がらずに話しかけられたのはいつ以来だろう。仮面をつけているという非日常感で物怖じしないでいられるのかもしれない。
「もしよかったらお話しませんか? 一人で待ってて、退屈なんです」
 パーティ会場をぐるりと見て、オーナーの姿を探す。壁際で丸井さんの熱弁を受け止めている姿を確認して、少年にうんと頷いた。あの感じだと、解放されるまでしばらくかかりそうだ。
「お兄さんはこのパーティはじめてですよね?」
「そうだけど……ここに居る人の顔、大体覚えてるんだ?」
「ええ、僕は記憶力には自信があるんです」
 仮面の人たちはわかりませんけど、と言いながら頬を掻く少年はどこか自慢げだ。自分が特殊である自覚が薄かったけれど、そういう力というか、特技を生かして仕事にしている人たちの会合でもあるのかもしれない。
「結構特殊な人たちの集まりですから、毎年楽しみにしてるからかもしれませんね」
「特殊……ってどういう感じの?」
「探偵とか、占い師とか、便利屋とか、巫女さんとか……」
 思ったより特殊な職業の名前がぽんぽんと出てきて驚く。それ以外にも傭兵とかいるらしいですよ、なんて付け足されても冗談かどうかもわからない。
「そういう人たちにお世話になってるお客さんとかもいます」
 新しいお仕事につなげるための営業の場でもあるらしい。納会というか、実質来年の仕事を決める場でもあるような気がする。見渡してみるが、誰が探偵で、誰が傭兵でと判別することはできないが、誰もが会話をしているというのはわかる。会場全体がにぎやかなのだ。
「お兄さんは誰かの付き添いですか?」
「あ、ええと……白澤さんっていう、あの辺にいるすごくかっこいいお兄さんの助手」
「ああ、白澤さんの……」
 オーナーはもしかして業界の有名人か何かなのだろうか。名前を出してすぐにあの人、と伝わるとは思わなかった。もしかしたら他にも有名な人がいるのかもしれないが、詳しくない俺にはわからない。単純に仮面をつけず、素顔でいるからというのもあるかもしれない。
「君は誰かと一緒に来たの?」
「いえ、お迎えを待ってるところなんです。家で留守番させてる可愛いペットが心配で、もう帰ろうかなと思っていて……」
 喋っている途中で、少年がけほんと一つ咳をした。咳払いを繰り返す様子からして、喉が渇いているのかもしれない。少年と話している間に自分のドリンクを飲み干してしまっていて、すぐに渡せそうな飲み物が見当たらなくて少し困った。
「たくさんお話したから、喉渇いちゃいましたね……あ、それ二ついただいていいですか」
 少年が偶然通りすがったフロアスタッフを呼び止め、グラスを二つ取る。片方を手渡され、俺も喉が渇いていることに気が付いた。パンは口の中の水分を奪うものなあと思いつつグラスを傾け、ドリンクが喉を落ちる瞬間、僅かにアルコールの匂いがした。
「君、ちょっと待って。これ、アルコールが入ってる」
「えっ?」
 グラスに口をつけた少年の手を止め、グラスをくるりと回す。仄かにアルコールの匂いが香った。どう見ても未成年の少年にアルコールの入ったドリンクを渡すのはまずいだろうに、バイトのフロアスタッフだろうか。
「ソフトドリンクを探してくるから、少し待ってて」
「うん、わかりました」
 少年はまだドリンクを飲んではいなかったようで、少しほっとした。フロアをぐるりと見渡す。ドリンクを配膳するスタッフのほかに、フリードリンクを置いたテーブルなんかがあるはずだ。そこにいけばお茶でもジュースでも入ると思うのだが、見当たらない。
「う、わっ!」
 きょろきょろと会場を見回す中、思わず大きな声を出してしまったのは背後から急に肩を掴まれたからだ。振り返ると丸井さんから解放されたらしいオーナーがいて、驚きのままにおかえりなさいとか言ってしまう。
「野田くん。会場を出よう、急いで」
「えっ、でも」
「なんだ、もう気付いちゃったのか」
 少年は残念そうにグラスをくるくると回している。何というか、さっき喋っていたときと雰囲気が違う。子供っぽいと言うよりは、意地の悪い老人のような嫌味っぽい空気があった。少年とオーナーの間に漂う雰囲気は、穏やかじゃない。
「白澤くんが見てないうちにと思ったんだけどなあ、残念……」
「行こう」
 オーナーは少年と話すことなく、俺の背中を軽く叩いた。よっぽど急いで会場を出る必要があるらしい。少年にじゃあねと挨拶する暇もなく、慌ててオーナーの背中を追いかけた。

 歩くというより、ほとんど小走りの速度で会場を後にした。スタッフルームを出てホテルの廊下へ戻る。ホテルの奥まった場所だからか人の気配はほとんどなく、ついさっきまでいた会場がこの扉の奥にあるなんて全く想像できなかった。
「挨拶はもう終わったんですか?」
「その件は大丈夫。野田くん、お酒飲んだだろう?」
 そう言われ、ようやく少年から渡されたドリンクにアルコールが入っていたことを思い出す。会場に入る前に酒は飲まないようにと言いつけられていたのだった。未成年にアルコールドリンクが渡されたかもしれないということに焦ってしまって、自分が飲んだことは頭から吹っ飛んでいた。
「一口だけ飲みました、すみません」
「謝らなくてもいい、子供からお酒を渡されるなんて思ってなかっただろう? 一口で済んでよかったよ」
 フロアスタッフが明らかに未成年である少年にアルコールを渡すはずがない、と思っていたのだ。アルコール度数がきついとかではなく、どちらかといえばジュースとほとんど変わらないようなものだったが、それでも酒は酒である。
「具合は悪くない? 身体がしびれたり、舌がもつれるとかは?」
「そんなに強い、アルコールでは、なかっ……たと思うんですけど」
 声が跳ね上がるというか、息が苦しい感じがする。あれ、と喉に触れた。速足のせいで息が上がっているのだと思っていたのだが、どうもおかしい。立ち止まった瞬間、目の前がくらりと歪んだ。焼酎で悪酔いをしたことはあるが、その感覚とも違う。
「野田くん」
 前に進もうとして、また視界が歪む。身体から力が抜けかけ、反射的に壁へ手を付いた。真っすぐ歩くことが難しい。立っているのが精いっぱいだ。
「ちょっとトイレ行こうか、戻しちゃったほうがいい」
「す……いません、俺……」
「大丈夫」
 オーナーの手を借りて、なんとか歩き出せた。目の前は霞むし、気分も悪い。たった一口飲んだものでこんなに具合が悪くなるものだろうか。特別なお酒だったのかもしれない。それを知っていてオーナーが忠告してくれていたとしたら、言いつけを守らなかった俺が悪いから面倒をかけるのが申し訳なく、何も言えなくなった。
 ホテルのトイレへ何とか入り、ふらふらと個室にたどり着いた。一人で歩くのもままならないせいで、一緒にオーナーが個室に入ってくれている。高熱でもここまで酷い状態になったことはないから、もう何が何やらわからない。
「タイ緩めるね、お守りは一度預かるから……ちょっとごめんね、背広も脱ごう」
 せっかく仕立ててもらったのに、と思う余裕はもうない。背広を脱いではオーナーに預け、息苦しさにネクタイを引いても解けずそのまま便器の前にしゃがみ込む。もうだめだ。
「大丈夫、私が背中を叩いたらすぐ出てくるから。辛いけど我慢して」
「も、ほんと、すいません……」
 後ろに立ったオーナーが首元に手を回してタイを緩めてくれる。指に力が入らなくて、自分で出来なかったのだ。そのままシャツのボタンまではずしたら随分楽になった。
 さらりと、背中を叩いたらすぐに出てくる、とオーナーが言った気がする。出てくるとは、一体何が。
「目、瞑ってた方がいいかも」
「うぇ、う、はい」
 う、とせり上がってくる何かについ堪えようとしてしまう。嘔吐はいつ以来だろう。酒に酔って吐いたことはないから、まだ小さかった頃に酷い風邪にかかったときくらいだろうか。関係ないことに思考を飛ばしてしまう。現実逃避だ。
 オーナーの手が、背中を軽く叩いた。身体の中でふっと糸が切れたような感覚があって、喉の奥で何かが跳ねた。

「……もう大丈夫?」
「大丈夫です……」
 パーティ会場に戻らず、ホテルの外で風に当たっている。緑の多い場所だからか、呼吸が楽になったように感じる。オーナーに買ってくれた水のペットボトルの冷たさにも救われて何とか持ち直した。
「さっきの何だったんですか……何か、喉の奥で跳ねたし、何が出たか見てないんですけど……」
 食べたもの全部出したくらい吐いた。吐いたというか出た。出たものの、吐くのに疲労困憊して何が出たか見ていない。見ていないというか即流されてしまった。水流を頬に若干感じた気がする。
「あの少年、毎回誰かにちょっかいを出す悪い人でね。お酒にクスリ仕組むのがうまいんだ……目の前にいてもいつ仕組まれたかわからないくらい」
 そんなに特殊な人物だったとは思わなかった。後から知って驚くことばかりだ。グラスはたまたまそばを通ったスタッフからもらったもので、少年の手を介してグラスを受け取っただけなのに、仕組んだ瞬間なんて全くわからなかった。
「あれ飲み切ってたらどうなってたんですか……?」
「うーん」
 オーナーが言葉を濁す。これは、あれだ。写真のときと同じだ。教えるとよくないから黙っている、というときの態度だ。
「来年のために教えてください、何が起きるかわかってたら本当に二度と起きないようにするので……」
 食い下がってみる。そもそも来年納会に連れて行ってもらえるかどうかはわからないのだが、今後のために、という言葉はそれなりに効果があるらしく、オーナーはじっと俺を見つめた。言葉を選んでいるな、という沈黙がほんの少し痛い。
「……鳥になってたかも」
 鳥。羽でも生えるのだろうか。いや、というか人間が鳥になるのか。もしかして比喩だろうか。鳥。ペット。少年はそういえばペットの様子を見たいから家に帰りたいと言っていた気がする。
「……籠の鳥、みたいな……?」
 そろそろとオーナーの表情を窺えば、イエスともノーとも取れない微妙な顔をしている。どちらかといえばイエス寄りである。超記憶を持つ少年なのかな、というイメージが一瞬でアブない人物にすり替わってしまった。
「昔、私も似たようなちょっとかいを出されてね……やられっぱなしなのはいやだからやり返したんだけど、どうも根に持ってるみたいで……私の助手だから野田くんがやられたんだと思う」
「はあ……そういう、なるほどお……」
「普通の人ならあの場で昏倒してるから結構まずかったんだ。野田くんだから大丈夫だったってところがあってね……」
 ごめんね、と申し訳なさそうに謝られてしまって、逆に俺が慌ててしまった。そもそも、少年から渡されたドリンクがアルコールとは思っていなかった。そんなに抜け目ない相手がいる場所だというのも知らなかったし、オーナーは忠告をしてくれていたのだから俺の責任なのだ。吐くくらいで済んだという意味では、頑丈でよかったと心の底から思うばかりだが。
「大丈夫っす、それより……俺のせいでさっさと出てきちゃいましたけど、そっちは大丈夫なんです?」
「視えて、あの場で昏倒しなかったって時点で周りから顔と名前くらい覚えられてると思うから、何かしらに繋がると思うよ」
 今後の仕事に繋がるかどうかは置いておいて、助手としてある程度役に立つというか、それなりの人材であることをPRすることはできたらしい。一般人が飲んだら昏倒するようなものをその辺に置いておくのは実力を測るためなのか、単なるいたずら心なのかはわからないが、ただ迷惑をかけただけでないならそれで良い。
「何か埋め合わせするよ、おいしいお店とか」
「オーナーが連れて行ってくれるお店なら、埋め合わせには十分すぎる気がしますね」
 立ち上がって伸びをする。ようやく動けるようになってきた。納会というには何も納まっていないが、今日はもうどこかに出かけたいと思わない。特に口に入れるものに関しては安全を確かめてから食べたい。
「スーツ、クリーニングに出しておかないとですよね」
「それが終わったら予約取ろうかな、今日はどうする?」
「今日は粥でも作りますかねえ……」
 自分で作る飯なら何も危険はない。年の瀬に酷い目に合ったが、過ぎてしまえば終わったことだ。オーナーに助けてもらうことばかりで助手としてどうなのだろうと悩みはするが、役に立てる場面があれば全力で挽回したい。来年の目標はそれでいこう。
「……そういえば仕事納めって今日ですか?」
「ああ、そういえば」
 温くなった水を一口飲み、立ち上がる。もう眩暈もしないし真っすぐ歩くことができた。
「色々あったけど、来年も引き続きがんばりますので」
 よろしく、と頭を下げれば頭上でオーナーがくすりと笑う声が聞こえた。改まって言うことでもなかっただろうか、と少し照れる。
「こちらこそ」
 新年会は期待していてねという柔らかな声と共に手のひらが差し出される。握手だ、と気が付いて握り返した。薄い掌なのに思いのほか握力が強い。丸井さんみたいにぶんぶんと振る握手ではなく、しっかりと握って離れていく。
 年の瀬。もうすぐ新しい年が来る。来年もここでがんばろう、という気持ちが湧いたのは初めてのことだった。

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