【小説】#2 怪奇探偵 白澤探偵事務所 | 迷子の灰色猫を探せ
あらすじ:野田が白澤探偵事務所に勤め始めて約一週間。倉庫の掃除以外に始めての依頼を請け、迷子の猫を探すことに。猫はすぐに見つかったが、どうもすぐに家に帰る様子はなく……?
人間、終わりが見えないと希望が持てないものだ。
ぼんやりと天井を見上げながら、じんとしびれる指先を揉んでいる。倉庫の壁一面に棚を取り付ける作業は中々難敵だった。明日は取り付けた棚に山のように積まれた本を収納する作業が待っている。それが終わったら段ボールに詰まった書類のデータ化が控えていて、と考えながら目を瞑る。終わりが見えなくても、明日を考えて眠ることが出来るのだから今までよりずっとマシな仕事をしている。
白澤探偵事務所で働き始めて七日経った。そのうち二日は休みだから、正確には五日だ。今のところ俺の手が必要な依頼はなく、もっぱら三階の備品倉庫を片付けるのが主な業務になっている。
整頓が苦手だという白澤さんは、倉庫の整理整頓すべてを俺に任せると言った。了解と返事をしたものの、進捗は芳しくない。倉庫は白澤さんが趣味で買い集めた本と何に使うのかわからない雑貨と過去の調査レポートの入った段ボール箱で埋め尽くされていて、とてもこれから何かを保管したり収納したりできる場所はないからだ。
終わらない整頓と比べ、白澤さんとの共同生活は順調だった。生活に関わることで口うるさくああしろこうしろと干渉されることもなく、互いが邪魔にならないように適度な距離感で過ごせている。生活費や食費に困ったときにはここから出しなさい、という名目で預けられた白澤さんの財布の扱いには少し困っているけれど。
目を覚ます。八日目の朝だ。枕元の携帯を持ち上げ、目覚ましより早く起きてしまったことに気が付いて少し損をした気分になる。周囲のビルが高いからか、部屋に朝日は差し込まない。寝転がったままカーテンに手を伸ばし、外が明るくなっているのを見てようやく朝だなと思う。
一歩遅れて、枕元で携帯が鳴る――これは白澤さんが俺のために用意してくれたもので、もともと持っていた携帯は電源を切って寝かせっぱなしになっている――アラームを止めて、体を起こす。朝の支度を始めなくては。
部屋を出て、リビングへ移る。朝は白澤さんの方が早い。ソファーに深く座って組んだ足のつま先から、ゆったりとページをめくる指、文字を追う目線の全てが絵になるなと毎朝思う。コーヒーを飲みながら読書をしているだけなのに、テレビで見る俳優やモデルさんみたいなのだ。美形で探偵って、顔を覚えられてしまうのではないだろうか。
「おはようございます……」
「おはよう」
朝の挨拶をして、顔を洗いにいく。これから朝食を食べるのに歯磨きをするのって何だか非効率的だ、と思いながら歯も磨く。習慣だから疑問に思っても止めることはないのだが、時々考える。
朝食の支度をする。冷蔵庫から卵とベーコンを出して、適当に焼く。焼けば大体何でも食えるし、一時期ホテルの朝食バイキングの調理担当をしていたから手癖で程よく扱える。冷蔵庫から気休めの野菜ジュースを取り出して、朝のタイマーに合わせて炊飯しておいたぴかぴかのご飯を盛ればおしまいだ。
「野田くん、ソファー使って」
「あ、ども」
朝食の準備が終わると、白澤さんは階下の事務所へ降りる。出勤である。俺は入れ替わりにソファーに座って、適当なテレビ番組をつける。教育番組をつけると、今の子はこんなことを勉強しているのかと思えて少し面白い。時間も表示されているし、ぼんやりしすぎなくて良い。
映像を見ながら飯を食べ、白澤さんのマグと自分の使った食器を洗い、着替えをしてもまだ九時五十分だ。着替えて一階に降り、白澤さんの座る大きな机にあるタイムカードを切って就業開始になる。
「オーナー、今日のお仕事は?」
これまで、連続して備品倉庫の清掃を承っている。終わりが見えない作業。そろそろ床が見えてもいいはずだが、段ボールを移動させるだけで二日潰した。今日は昨日取り付けた棚に本を押し込むので一日潰れるだろう。
「今日はアポイントが一件ある。依頼を請けたら、そのまま外出になると思う」
「……アポイントってことは、依頼人が来るんです?」
探偵っぽい。掃除や整頓ではない業務は初めてで、思わずぴしりと背筋が伸びる。
「お茶を頼むよ、……カップとソーサーの場所はまだ教えてなかったね?」
「あ、はい」
一階は応接室兼所長机のある部屋と給湯室兼事務室で構成されていて、白澤さんが応接室、俺が給湯室兼事務室をあてがわれている。カップとソーサー、それにインスタントのお茶は給湯室を適当に探せば見つかるだろうけど、先に教えてもらえるのなら助かる。何より、ただお茶を出すだけなのに依頼人とオーナーを待たせるのは気が引ける。
「豆とか挽きます?」
「喫茶店ならあるだろうけど、うちにはないかな」
そういうの似合いそう、と口に出しかけて止める。白澤さんは上司なのだった。
そのまま、給湯室の棚にある各種飲料のインスタントパックの保管場所、客用のカップソーサーとウォーターサーバーからお湯を出す方法を教えてもらう。ソーサーが一つ割れてしまったカップがあって、それは私物として白澤さんが使っている、と言っていた。そのうち、一組買い足しておこう。
「今日の依頼人はコーヒーが苦手だから、紅茶を」
「はい」
スティック状の袋にパッケージされたそれを出し、ソーサーと並べて置いておく。カップは一応洗ってから、と流しに水を出したのとほとんど同時に表のベルが鳴った。
どうやら依頼人が来たらしい。
「よろしく、野田くん」
「了解です」
白澤さんが顔を上げ、応接室へ戻る。依頼人を出迎える声が続くのを確認して、カップを洗い、水を拭き取った。話している内容は聞こえないが、女性の声だ。
スティックの封を切る。ふわ、とレモンの香りがした。インスタントパックやら、茶葉やら、紅茶であれば蒸らす時間がいらないというのは便利だと思う。そろそろとウォーターサーバーからお湯を注ぎ、二組をトレーに乗せて応接室へ運ぶ。ホールのバイトをしておいてよかったと少し思う。零さないように、と気を付けて歩くのは中々大変だから。
「オーナー、お茶を……」
「わあ、白澤さんやっと人をお雇いになったんですか」
熱いのでお気をつけて、と言うより先に声をかけられて驚いてしまった。オーナーと向かい合って座っていたふっくらとしたご婦人が、俺とオーナーを交互に見てにっこりと微笑んでいる。発言の意図を掴みかねてオーナーを見れば、ご婦人と同じようににっこり微笑んでいた。
「いい巡り合わせがありまして」
「よかったわ、おひとりで大変そうだったから気になっていて……」
勝手に心配してごめんなさいね、と言う様子はどこか人懐っこく、憎めない人という印象だ。野田ですと小さく頭を下げて挨拶をし、紅茶をテーブルへ出してそそくさとオーナーの後ろに立つ。話を一緒に聞いていた方が、後から共有の手間が省けるだろう。
「依頼というのは、その……うちの子が、また家に戻らなくなってしまって……」
「タビさんですね」
「家の周りにいると思うんですが、さすがに五日も戻らないと心配で……」
初めての依頼ではないらしい。家に戻らないタビさんというのは、名前からしてご婦人のペットだろうか。ご婦人は小さく背中を丸め、俯いている。愛する家族が戻らないというのは、心配だろう。善良そうなひとが肩を落とす姿というのは、心が痛むものなのだなと理解した。
「野田くん、机の上にある青いファイルを持ってきてくれるかな」
「あ、はい」
オーナーに言われ、机の上に置かれていた青いファイルを応接机まで運ぶ。紙が詰まっていて、持ち上げると結構重たい。ファイルを机に置いて、またオーナーの後ろに戻る。座るより、ここで立ってみていた方がお行儀よく見える、気がする。
「前回作成した地図がありますので、タビさんの縄張りが変わっていなければ、すぐお迎えできるかと思います」
青いファイルを広げると、住宅地の地図と写真が並んでいた。住宅と住宅の隙間、日だまりに寝転ぶ白い猫と薄暗い林のなかにぽつんと座るグレーの猫。タビちゃんはどちらだろう。グレーの猫の前足が靴下のようだから、これを足袋に見立てて命名されたのかもしれない。
オーナーは地図を指しながら、ご婦人に近所に変わりないかを聞いている。ご婦人は近所の様子を思い浮かべながらそれに答え、地図へ書き込みが増えていく。タビちゃんの活動範囲であろうエリアには蛍光ペンでマークがあり、前回発見地点には大きく赤ペンでマルがあった。
「またこのあたりにいればいいのだけど……タビちゃん、あんまり運動神経よくないし……大きな音にびっくりしてしまうし……」
ご婦人はうるうると瞳を潤ませ、今にも泣きださんばかりだ。ティッシュいるかな、とオーナーの机へ一瞬視線を投げる。なかった。
「私が必ずお家まで連れて戻ります、お任せください」
オーナーが微笑みながら穏やかな声音で言う。その言葉に、この人なら見つけられる、見つけてくれると期待をしてしまうような響きがあった。向かい合って座るご婦人がほっと安堵の表情を見せ、丸くなっていた背がしゃんと伸びる。
「では、こちらにサインをお願いできますか?」
「ええ」
青いファイルから依頼内容をまとめた書類が出てきた。捜索委任状というか、何というか、難しいお約束がたくさん並んでいる。これに依頼人がサインをすることで、白澤探偵事務所がその依頼を請けたということになるらしい。
ご婦人が書類へサインをし、白澤さんが確認して、依頼は成立した。
「では、前回と同じようにご連絡いたします」
「よろしくお願いします……野田さん、お茶をありがとう。お仕事がんばってくださいね」
依頼人は俺にもぺこりと頭を下げる。まめな人だ、と思いながら俺もまた同じように頭を下げた。タビちゃん、何としてもお家に帰してあげなくては。
「野田くん、タビちゃんについてはこれを見て」
「はい」
過去の依頼が表示されたタブレットを渡され、応接室のソファーに座ってそれを読む。
依頼主は秋原真由さん。過去二回の依頼もペット探しの依頼だ。対象は飼い猫のタビちゃん。ブリティッシュショートヘア、五歳の男の子。去勢済み。添付されていた写真を見ると、さっき地図と一緒に閉じられていたグレーに白い靴下の猫がタビちゃんで合っていたらしい。ご婦人の胸に抱かれ、まるまるとした頬と金の目がこちらを見上げる写真を見ると、なんだか似ているふたりだなと思わなくもない。
同じ依頼が過去に二度あるということは、タビちゃんは脱走常習犯なのかもしれない。お母さんが心配しているから家に居てやればいいのに、と少しだけ考えてしまうが、それを連れ戻すのが今日の仕事だ。
「タビちゃんの縄張りは変わっていないだろうから、さっきの地図が役に立つと思う……あ、それと」
オーナーが俺の服をじっと見て、腕を組む。意図が読めず、じっと白澤さんを見上げた。目が合った瞬間、ふと微笑まれた。
「動きやすい服の方がいいかもしれないね、あと汚れるかも」
「……着替えてきます」
新宿駅から電車に揺られ、閑静な住宅街に着く。かつての暮らしを残す緑地公園や、大きな寺が目立つエリアだ。家賃が高そう、以外の感想がない。
「タビちゃん、脱走常習犯なんですか?」
「散歩が好きらしいんだ」
住宅と住宅の間、車のボンネットや自転車の籠の中、猫のいそうなところを目視確認しながら歩く。昼間から成人男性が地図を確認しながらうろついているというのは、一見して職務質問を受けやすそうな状況でほんの少し周囲を気にしてしまう。オーナーが特段気にしていないだけに、余計気になってしまうのかもしれない。
「今は前回見つけたところに向かっている」
地図に大きく丸がつけてあった辺りだ。寺の境内で日向ぼっこをしていたところを確保、と記録が残っている。日向ぼっこなら家でもできるだろうに、相当外が好きなのだろう。
「住職さん、見かけてたりしませんかねえ」
「どうだろう」
山門を抜け、本堂へと近づいていく。神社も寺も縁が薄く、なんとなく落ち着かない。都会の中にあっても何だか静かな気がする。境内の落ち葉を掃く僧侶にぺこりと頭を下げられ、反射的にお辞儀を返した。オーナーはお辞儀から挨拶へ繋げ、タビちゃんについて尋ねている。スムーズだなあ、なんて思いながら俺は境内を見まわした。
「前回お世話になっていたグレーの……」
「ああ、今、本堂で寝ていますよ」
「……お迎えに上がりました」
あっさり見つかった。見つかるに越したことはないが、このお寺が気に入っているのだろうか。とにかく、僧侶に案内されて本堂へお邪魔することになった。
寺の本堂の中に入るのは初めてで、ついきょろきょろと視線を泳がせてしまう。花がたくさんあるとか、椅子と座布団が山のようにあるとか、お香の匂いがそこかしこからするとか、なるほどお寺の中にはこんなものがと感心しているうち、僧侶とオーナーはタビちゃんがいつごろお寺に来たかという話をしていた。ぼんやり見物をしている助手というのはどうかと思い、二人の会話を聞いた。話によれば、タビちゃんが姿を表したのは昨日のことらしい。四日は外で過ごしていたらしく、お寺でもらったご飯のおかわりを求めて皿を咥えて僧侶の後を追いかけてきたのだとか。
「猫さん、お迎えですよ」
本堂にあるふかふかの座布団の上、グレーの丸い塊に僧侶が声をかける。あまりに丸くてふかふかなので、一瞬猫だと気が付かなかった。そういうクッションか何かなのかなと思ってしまった。
グレーの塊がもぞりと動き、耳がぴんと立つ。寝ぼけ眼でこちらを見上げ、興味のなさそうな顔で大あくびをした顔と手元の写真を見比べる。グレーの毛並み、白い手袋の手、タビちゃんに間違いないだろう。
「野田くん、抱っこの苦手な子だから気を付けて」
「猫って……どうやって抱っこを……」
経験がないのでよくわからない。子供を抱っこする感じだろうか。ある程度のサイズなら何とかなるのだが、猫はあまりに小さすぎる。
「逃げそうな様子ではないから、落ち着いて」
とにかく近寄らなければ話にならない。恐る恐る近づき、猫の鼻先に指を差し出した。動物にはまず自分の匂いを嗅がせて敵ではないとアピールするといいと聞いたことがある。猫はどうだかわからないが、とにかく敵意がないということはわかってもらえるだろう。
タビちゃんは指先の匂いをすんすんと嗅ぎ、ぺちんと前足で伸ばした手のひらを叩いた。拒否、拒絶、のような感じだ。指をどけると、伸びをして座布団から降り、気ままにのしのしと歩き出す。怯えて逃げ出して行方がわからなくなる、という感じではないが、すぐに戻る気もないということだろうか。
「……後ろからガシッといくべきですかね」
「タビちゃんはしばらく歩いたら満足するんじゃないかな……後を追いかけようか」
本堂を案内してくれた僧侶へ御礼を言い、慌ててタビちゃんを追いかける。本堂を出て、山門のあたりにちょこんと座って待っている。着いてこいと言わんばかりの態度に、脱走三回目ともなると世間慣れするのかもしれないと少しだけ思った。
ぽてぽてと歩くグレーのふわふわと、大人が二人、住宅街を抜けていく。不思議と猫が好みそうな狭い道は通らず、車や自転車のない道を進むのが不思議だ。どんな猫も狭くて少し暗いような場所で見かけるから、そういう場所が好きなのかと思っていた。
「ちょっと歩いて満足したら、自分から膝に乗ってくる賢い子なんだ」
「それ、依頼主に教えてあげたらいいんじゃないですかね……今は散歩する猫なんて珍しくないし」
うららかな昼下がり、暑くも寒くもない行楽日和に猫と一緒に散歩と言うとなかなかほのぼのした字面だ。オーナーは案外普通に散歩を楽しんでいて、その辺にある自販機で適当にお茶を買って飲んだり、タビさんの横に並んで歩いたりしている。
「探偵って、こういう探し物もするんですね」
「何でも屋さんのようなものだから」
街の便利屋みたいな感じだろうか。また変なコインを探して集めるような、変わった仕事ばかりなのかと思っていたから、あまりの平和さにギャップを感じてぼんやりと街を歩いている。
ふと、街並みが途絶え、目の前に小さな林が広がっていた。竹藪の向こうに民家の壁が見えるあたり、大きな家の裏庭と言ったところだろうか。私有地というやつだ。不法侵入、という言葉が一瞬頭を過るが、タビちゃんはそんなことを気にもせず裏庭へ突き進んでいく。なぜか白澤さんも一緒に。
「ちょ、ちょっと、オーナー」
「何だい、見失ってしまうけれど」
「不法侵入……」
「すぐ入って出れば大丈夫、事情を説明すれば問題ない」
本当に問題ないのだろうか。いや、オーナーが言うのだからきっと大丈夫だろう。多分。タビちゃんを追って裏庭に侵入する上司の後を追いかけて歩き出す。早く満足してくれ、と思いながら。
とにかく猫を抱えたら全速力でここを出ようと決心したとき、目の前でぴたりと白澤さんが足を止めた。つられて足を止めると、白澤さんはじっと足元を見つめている。
「にゃあぉ」
「満足したかあ、悪い子ちゃんめ」
しゃがみこむと、待っていましたとばかりに猫が飛び込んでくる。濡れた肉球がデニムに足跡と泥を付け、胸のあたりに爪をひっかけた。抱き上げろ、ということらしい。胸に抱えるように体を掬えば、満足にまた一声鳴いた。
「タビちゃん捕まえましたよ、早く出ましょうオーナー」
「いや」
オーナーは、もはや何もいなくなった空間をじっと見つめている。何かあるのだろうかと目を凝らしてみたけれど、やはり何もない。
ざら、と風に吹かれる笹の音が突然大きくなった。行楽日和だと感じた日差しは林の中では遠く、じめっとした空気がある。少し林に入っただけなのにこんなに空気が変わるだろうか、と気味が悪くなってきた。
「野田くん、先に戻っていてもいいから」
視線が動かない。ざら、とまた笹が鳴る。風なんてさっきまで吹いていなかった。腕の中の猫がむずがって俺の袖に爪を立てる。動け、とでも言うように。
「野田くん」
ちら、と俺を見る白澤さんと目が合って、ぎくりとした。サングラスの向こうの目が、金色に光ったように見えたからだ。色素の薄い目をしているのはここ数日でよく見ていたが、人間の目が光るなんてことはない。風が強くなる。林の落ち葉がいくつか舞った。
「オーナーと一緒じゃないと出ません」
タビちゃんの頭を撫でてやり、オーナーの傍に立つ。俺は、この人の助手なのだ。猫を抱えて一人で先に出るなんて、居心地が悪い。
オーナーはふと笑い、ようやく動いた。じっと見つめていた場所にしゃがみこんで、何かを拾っている。タビちゃんを抱えたままそれを追えば、オーナーの指先には小さな鈴があった。
「落としたんだろうね、首輪から」
タビちゃんの首輪を探ると、確かに壊れた金具が引っかかっている。落とした自覚が本人にあったのかどうかはわからないが、鈴を受け取ってポケットに突っ込んで林を出た。
いつのまにか、風は止んでいた。空を見上げれば、厚い灰色の雲が広がっている。雷雨の前には強い風が吹くと聞いたことはあるが、天気があれる予報なんてあっただろうか。
「雨の前に、ご自宅に送らないといけないね」
空を見上げて、オーナーが言う。俺が知らないだけで、予報では雨や雷の可能性が言われていたのかもしれない。ぽつり、と頬に冷たい感触が当たった。もう降ってきたらしい。
「ご自宅はすぐそこだから、走ろう」
「はい!」
オーナーは小走りに駆け出した。慌てて、猫を落とさないよう気を付けながら追いかける。ついさっき、落ちた鈴を見つめているにしては随分鋭すぎる視線だと思ったけれど、わからなくなってしまった。
タビちゃんは、自宅についた瞬間に俺の腕から飛び出してご婦人の足元にくっついて離れなくなった。元気そうでよかったとか、またお寺さんにお世話になってとか、もうどこにもいかないでねというご婦人の声は喜びに溢れていて無事にお届けできたことにほっと胸を撫でおろす。
俺はご婦人に服についた猫の毛を落とすようにと粘着シートを借り、その間にオーナーが報酬の見積もりと代金の振込について簡単に案内をしている。前回と同じように、ということで話はまとまったようだ。
「白澤さん、野田さん、本当にありがとうございました」
ぺこり、とご婦人が頭を下げる。タビちゃんは理解しているのかいないのか、こちらをじっと見上げているだけだ。俺もグレーの毛をしっかり取り終え、同じようにぺこりと頭を下げ、ご挨拶をしてからご婦人のお宅を出た。
雨は通り雨だったらしい。道路が濡れているくらいで、傘は必要なさそうだ。
「どうだったかな、探偵業は」
並んで歩くオーナーが、こちらへ視線をちらと投げて言う。仕事に対して変な期待をしていたのがばれたのかと思って、ぎくりとしてしまった。また変なコイン探しなら面白いな、と思っていたことは否定しない。口に出していうこともしないけれど。
「……何でも屋さんって、結構楽しいんじゃないかな、と」
「うん、野田くんは向いてると思う」
今後もよろしく、というオーナーの声は弾んでいる。次の依頼はいつだろうと思いながら、水たまりを飛び越えた。雲はもう、どこにも広がっていない。
おまけ:閑話はこちら