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ちょっとした落書きが自分の中で救いになってるのかもしれない



先日、森美術館のキース・ヘリング展にようやく行ってきた。

子供の頃にキース・ヘリングのTシャツを好んで着ていたので馴染み深かったのだ。シンプルでワクワクするような色使いや、コミカルな絵のタッチが好きだった。大人になって展示がやってくると知って、恥ずかしながら僕は作家の絵を知らなかったのだけれど、「あ!あの絵がやってくる!」と思ったのだった。そのくせ来るのに時間がかかってしまった。でも、モタモタしているうちに本当にいきたかった展示に行けないというのはもうゴメンだ。展示は行ける時に行かなければならない。
大人になって得た少ない教訓の一つだ。


絵を見ているうちに「これは俺でも描けそうだな」という気持ちになってきた。ちなみに、実際には描けない。みんなもやってみると思い知ると思うけど、描いてみるとこうはならないもんだ。

それでもなお、こういう絵でも額に飾っても様になるんだなーくらいの感想は持っても良いと思った。なんというか、こちらが強く抱いている(抱かされている)アートに対する身構えを解くような作品たちだった。

そして、こういう感じで絵を描けたら、素敵だろうなと思った。
太いマッキーで、大きなスケッチブックに絵を描きたくなった。
それで、何かアートのようなものではなくて、それこそキース・ヘリングのような即興的なコミカルな絵を。


Photo by もめ


それからたまに絵を描くようになった。絵っていうか、イラストとか。
ドラえもんとかアンパンマン作品のキャラクターを描くと、誰でも喜んでくれる。仕事で毎回納品する先があるのだけれど、そこに納品するたびにジャイアンとかスネ夫とかしずかちゃんとか描いていたら「次は何が来るのか話題になってるよ」と言われたりする。楽しい。

上手く描けたら面白いけれど、上手く描けなくてもそれはそれで面白い。下手さ加減が笑えるというか、「要素としてはそうなんだけど、そうじゃねえんだよなぁ」とギャップを楽しむことができる。

先ほどの「次はどんな絵が出てくるのだろう」という期待もそうだけれど、絵を描くことでコミュニケーションが始まる。絵が起点になっていく。美術大学に5年いながら、絵を描くというのがどういうことなのか、絵が社会やコミュニケーションの文脈でどのような役割を果たすのか、僕は何も知らないままだったのだ。


しずかちゃんの要素を全て包含しつつも、しかししずかちゃんという感じはしない。しかし、なぜこれがしずかちゃんではないのかを僕たちは言語化できない。「なんか違うんだよなぁ」みたいな。
そういうわからなさや、ちょっと違う感も含めて絵には救いがあって、だから最近は絵を描くのがほんの少しだけ、楽しいよ。




おしまい






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