アート鑑賞のメリット
叱られなくなった
突然だけど、30歳を過ぎてから本当に叱られなくなった。なってしまった。
会社に入ったばかりの新人の頃はしょっちゅう叱られて、叱られながら「こうやって叱られている内が花だぞ。叱られなくなったらおしまいだからな」と言われていたけれど、それを言う側になった今となっては意味がわかる。
ある程度歳をとって「わかりません」では済まされない年齢になると、自分を叱ってくれる人がほとんどいなくなる。
子供の頃は洋服の襟が変な風に曲がっていたり、口の周りにご飯粒がついていたら親や先生が指摘してくれたけれど、大人になったらそうはいかないのと同じだ。
叱られなくなってしばらくは「こりゃ楽でいいや」と嬉しかったが、本当に叱られないので不安になってくる。自分の決断・口の聞き方・相手への態度・物事の考え方。本当にこれでいいんだろうか、と。
部下のミスに対して注意をした後で、部下が「さっきの注意の仕方なんですけど、言い方がちょっと良くなかったと思います。もう少し丁寧に落ち着いて注意してもらえますか?」と言ってくれれば「そうかそうか次から気をつけよう」と思えるが、部下がそんなことをしてくれるはずがなく、そう言う風にして言い返されない限りは自分で自分の良くないところに気づくのは本当に難しい。
そんな中で叱られることがあると「うわぁ本当にありがたいな」と思う。
でも叱られて「ありがたい」と思うのが大人なんだろうな、なんて思ったり。
自信を持って行動したり発言したりしたい。大人なんだから。
でも相反するようだけれど、同時に自分の言動に対して「ひょっとしたら間違ってるんじゃないか」という問いを常に持っていたい。これが難しい。
部下に「絶対こうした方がいいよ」とアドバイスしながら「でも違う方法もあるのかもしれないな、自分が気付けてないだけで」と思いたいし、自分の信念は大切にしたいけれど、そうじゃない考え方をする人が山ほどいることも許容したい。
要するに自分を常に批判する視座を持ちたい。叱られないのなら自分の中にそういう機能を内在させたい。そうすることで、大人になった後も(誰からも叱られなくなったあとも)人として成長し続けられる気がするのだ。
アートを鑑賞する意義
美術館でアートを見るのが好きだ。
古典でも良いし、現代アートでも良いし。彫刻でも絵画でもインスタレーションでも、やっていれば見にいくようにしている。
見にいくと確率としては15%くらいが「うわあめちゃくちゃ面白い!」となって、50%くらいが「良かったかな」くらいの感じで、35%くらいが「全然ワケわかんなかった」という感想で帰ってくる。
では35%の「全然ワケわかんなかった」は無価値なのかというとちっともそうではなくて、誤解を恐れずに言うなら僕はこの「わからなさ」を味わうことに意義を感じている。
作品は全然分からないけれど、分からないことを分からないままで「こうかもしれないし、あるいはこうかもしれない。でも結局のところは分からない」ということ(=ネガティブケイパビリティ)を自分の中に持っておくことで、自分の目の前に現れる物事を決めつけない態度を得ることができる。
そういう姿勢を持ち続けることができたらなら、自分のことを叱る人がいなかったとしても、自分で自分をチェックすることができるのではないか。
仕事も1年目2年目は分からないことだらけで、いちいち考え込んだり試行錯誤したり、わざわざ回り道をして時間を無題にしたりする。でもそれはすごく価値のある時間で、そうやって格闘している時間は「ほんとうのところは自分は間違っているのかもしれない」という謙虚な視座を自分に与えて醸成してくれる。
社会人5年、10年目になってくるとやってくる困難や問題も「前のあのパターンと同じだな。だったら分かるからこうしとけば大丈夫でしょ」で対応すればなんとかなってしまう。そうなると「俺の言うこときいときゃいいんだよ」みたいな姿勢になってしまう恐れがあって、多分その姿勢はすごく楽なので、放っておくとすぐにそっちの道に行きたくなってしまう。
初心忘れるべからず、と言うとありきたりすぎて言いたいこととは少し外れてしまうのだけれど、そう言うフレッシュな視座を持つこと。あるいは、謙虚に「でも間違ってるのかもな」と言う態度で居続けること。
それらを持ち続けたくて僕はアート鑑賞を続けているし、そういった観点で僕はアート鑑賞に価値を見出している。単純に楽しむことからプラスして、そう思う。
今日はここまで
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