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ストレス解消法、掃除



とにかく頭にきて、イライラしながらトイレ掃除をする。

「あんな言い方しなくてもいいのでは?」トイレ掃除をしても苛立ちが抑えられなかったらキッチンの洗い物を片付けて、さらに排水溝のパーツを外して中のヌメリを徹底的に拭く。「だいたいさ、こっちに落ち度はあっただろうか?」綺麗になったパーツを元通りにして、丁寧に手洗いをする。すると、少し心が落ち着いた自分がいる。

僕のストレス解消法は掃除だ。
本気で頭に来ているときこそ掃除をする。


掃除をしているとストレス解消になると気づいたのはたまたまだ。
イライラしていてもできるだけ丁寧にやる。手順を間違えずに、一つずつ間違いなくこなしていく。タバコは肺を汚し酒は脳を溶かすが、トイレ掃除はトイレが綺麗になる。ストレス解消法としてかなり優良な方法のような気がする。


黙々と決められたステップを踏んで丁寧にやる反復作業をしていると頭が冷えるし、結果的に綺麗になった成果をすぐに見ることができるので気分は良い。

ほかにも洗濯とかアイロンがけとか植物への水やりなどの反復作業の家事はあるけれど、それらは通常業務に吸収されてしまっているので、イライラしている時のわざわざ感がない。それに掃除には終わりがない。そこがいい。本当に掃除するところがなかったら畳を拭いたりベランダを掃き掃除したりし始めると思う。



植村花菜の「トイレの神様」という歌の中で

トイレには それはそれはキレイな

女神様がいるんやで

だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいに

べっぴんさんになれるんやで

植村花菜「トイレの神様」


というフレーズがあるが、こういうふうに良いことをしたら良いことがあるという行動原理で生きていないので、全然賛同できない。報酬を期待して自分の部屋を掃除してはならぬ気がする。

そうすると、いざ報酬がなくなった時に掃除しなくなってしまう。
勉強の成績が上がったらお小遣いをあげていたのに、お小遣いをやめたら勉強をやめてしまうのと同じだ。掃除の報酬は対象が綺麗になることで、勉強の報酬は成績が上がることだ。それ以外の報酬は無用なのだ。

掃除が終わったら、できればそれは誰にも知られたくない。
同棲している彼女に「掃除してくれたの?ありがとう!」とか、言われない方がグッドで、褒められてしまうとそれが僕にとって報酬として支払われてしまうので、思惑と違うのである。我ながら面倒臭いなぁ。

とにかく、因果応報のために掃除をしているのではない。

むしろ、報酬が発生しないところがポイントなのかもしれない。ヨガや瞑想のように、反復行動によって精神統一されている面は間違いなくあると思う。掃除するときはYouTubeを流したりしない。とにかく掃除に集中しているし、そうして脇目も振らずやるのがいい。


また、掃除をすることで自分を守っている感じがする。
戦って守る感じ。抵抗…一体何から?



普段僕たちは職場やSNSで評価に晒されている。

会社では上司の目を気にして、SNSでは写真をアップすればいいねを押される。街へ出れば大量の広告が溢れ返り、あれも持ってない、これも持ってないと不安を煽られる。要は心が休まらない。商業的空間。

そして恐ろしいことにそのどれもが僕たちの注意を惹きつける割には人生には全然重要ではない。資本主義が人を競争させたり人の不安を煽って無理に買い物をさせているだけなので。


掃除をすると商業的な経済空間から自分の意識を引き剥がすことができる感覚がある。だから報酬がないことが大切なんだな。メンテナンスすること。ケアをすること。生産的時間の軌道から外れること。



掃除はスマートフォンの逆だ。
僕はスマートフォンによって奪われたものを掃除によって取り返している。
SNSや通知音によって強制的に他者に接続され、注意を奪われ、評価に晒される。「有用でなければ生きていけない」と友人は言ったけれど。
掃除は、自己をコミュニケーションから引き剥がす。注意を自分で積み上げて、その評価は自分で回収する。完全に自己完結しており、社会にとっての有用性がない。だからこそ、掃除という行為そのものがスマートフォンに対するアンチテーゼになっていて、結果として僕は掃除によって自分を守っている。何から?消費社会から。


ミエレル・レーダーマン・ユクレスというアメリカ人現代アーティストが美術館の玄関をひたすら掃除する動画作品を作っていて、めちゃくちゃクールだったんだよな。




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