オートバイに乗るということ
かつて仲良くしていた職人は、コロナワクチンに疑念を抱き、プラスチック製品を憎み、オーガニック食品しか口にしない頑固者だったが、あるとき駆け抜けるバイクを見て「うるさいですね オートバイなんかに乗って」と吐き捨てるように言った。
彼は当然オーガニックと自然を愛しているので、石油を消費して大気を汚すクルマやバイクを憎んでいたが、彼が言うには「バイクなんて偉そうに言ってるけれど、あんなのはオートバイなんですよ。オートバイで十分なんです」とバカにするように言った。
僕はそのときのオートバイの響きがやけに気に入ってしまって、今ではバイクのことをオートバイと呼んでいる。僕のオートバイ。
オートバイが好きだし、オートバイに乗るのも好きだ。
オートバイは、孤独の装置だ。
本やイヤホン、カメラも同じように孤独の装置だと思う。
それは、社会や世間のようなものを自分から切り離す機会を与えてくれる。本を開くとき、イヤホンを耳に押し込むとき、ファインダーを覗くとき
ーそしてオートバイのエンジンをかける時、僕は軽やかに社会や世間から切り離される。まるでクラッチを切るみたいにー。切り離される音が聞こえるのだ。
ガチャン
僕の考えるオートバイはエンジンが剥き出しになっていて、丸目だ。昔から道路標識とかで使われそうな、クラシックなオートバイの姿。これまでバイクを何台か乗ってきたけれど、その基本的にはその形のものばかりを追い求めている。ニンジャみたいなスポーツバイクは、バイクって感じで、オートバイという感じはしない。
スピードも出さないし、砂利道や泥道を走り回ったりもしない。
普通のスピードで普通に走って、旅をするだけだ。
それが今はたまらなく楽しい。誰とも競争しない自分だけの時間だ。
人と写真を撮りに行くときもあるし、人とツーリングに行くときもあるけれど、人と連れ立っているときも結局は僕たちは一人だ。そういうのがいい。団体競技が苦手だった僕たちに残された趣味だと思う。
おしまい
休憩中に、SAで、あるいは目的地で、あるいはコンビニエンスストアの駐車場でオートバイを眺める。僕のオートバイだ。
ロイヤルエンフィールド ヒマラヤ
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