迷走/瞑想する日本思想〜Intro
日本思想史の本を準備していたら、チャットGPTが出てきてしまった。そこで色々と全面的に書き直しているのだけれど、ちょっとだけ、次回作のイントロの草稿でもアップしてみようかと思う。自己批判からの発展へ。
前のバージョンはこんな感じだった。
うーん、色々と改善の余地がある。
西洋哲学の「普遍性」とローカル性
哲学という営為は、どこをどう見てもヨーロッパで形成された文化的産物です。それは古代ギリシャ・ローマの文化、ユダヤ・キリスト教の文化が反発、融合し、歴史の荒波に揉まれ、さまざまな経緯を経て培われたものです。ただしそれは、ローカル性を目指したわけではない。普遍性を目指しました。普遍性というとよくわかりにくいですが、これは全国制覇、世界制覇、と考えればいいでしょう。自分たちは、土地に縛られない、生まれの文化に縛られない、最高の考え方、最高の真理の獲得を目指すのだ、というわけです。もともとローカルな文化のローカルな概念だった普遍性。これがまさに普遍原理に従って(ちなみにカトリックは「普遍」という意味)世界展開したのです。
日本の思想、その宗教性、そのローカル性
しかしながら、日本人にとって、世界制覇はなんとなくわかりますが、普遍的な真理の獲得、と言われても、ちょっと宗教的に聞こえてしまう、つまり如何わしい新興宗教の類、という感覚になるでしょう。それはそのはず、日本は八百万の神の、アニミズムの慣習でやってきたところです。複数の真理、神様ごとに違った論理がぶつかり合うことに慣れています。天皇と武家が併存したり、仏教と神道が併存したりと、統一した真理、統一的な政体は基本的になかったのです。唯一の例外的な事例は明治維新ですが、その核たる神道そのものがヤオロズの神信仰です。アマテラスの直系としての天皇、ということですが、古事記や日本書紀ではアマテラスは絶対的な神で、他の神と比べて圧倒的に偉い、という話ではありません。イザナギの禊の際に左目から溢れたケガレみたいなものです。アマテラスを生み出した、イザナギとイザナミも、現代のロマンティックラブ的な価値観からすれば、えらくヘタレな話です。神と神の壮大なセックスをして日本の島国を全て作った後、イザナミが死んでしまいます。そのイザナミを冥界に追いかけて行くまではロマンティックですが、実際死の国で出会ったイザナギがメチャクチャ怖い顔をしていたので、逃げ帰り、急いで水で目を洗って、そのさい生まれた神がアマテラス。なんとヘタレな神様でしょう。そしてそのヘタレ、イザナギの死の国から持ち帰ったケガレを洗った際に生まれたアマテラス。そして右目を洗って出てきたのがツクヨミ、鼻からはスサノオの三兄弟。別にアマテラスが絶対的な感じは特にないんですよね。スサノオが暴れて岩に隠れたりりもしています。『ナルト』や『ボルト』のような日本漫画を見ると、結構な必殺技になってますが、とはいえホントに「必殺」でもなかったりする。まあこれは漫画の演出上そうなってしまうのでしょうが。ともかく日本では、文化的に、さらには言語文化的に言って、相反する真理、信仰がたくさんあって当然なのです。それを一つに統一しようとする方が胡散臭い。今風に言えば「多様性」を大事にする、悪く言えば節操のない、一貫性のない、そんな文化的なノリが日本文化にあっては支配的であったわけです。それが日本文化の宗教的特性、ローカルな特性だと、とりあえずは言えるでしょう。
ヨーロッパ産「普遍性」の宗教性、ローカル性から科学の「普遍性」へ
ところがどっこい、この日本のローカル性は、ある意味では明治維新〜2度の世界大戦を経て、ヨーロッパ型の普遍性の文化の中に飲まれていきます。普遍なるものへの憧れ、これはキリスト教が持っていた、普遍性に重きを置く性質、つまり、神は唯一であり、普遍的であり、これだけが正しい。そしてそれは普遍的に正しい、という傲慢さを多分に含むものでした。要するに、ヨーロッパローカルの信仰であったわけです。
ところがどっこい、ここから科学が生まれてきます。科学は確かに普遍的な真理を抽出し、記述することに成功しました。仮説、実験、そして数学的方法という、自然言語に頼らない、人工的で抽象的な言語によって、真理を記述してしまったのです。そして科学はこともあろうか、その親である宗教を否定し、独自の発展を遂げるのです。そうした科学、普遍的な真実をかなりうまく捉えた科学を、今度はヨーロッパ哲学がさらにマウンティングして取り込もうとしていきます。普遍性を目指す文化の中にあって、その普遍性の学問の王道たらんとする哲学ですが、さらにはこの科学にもマウンティングを仕掛けてしまうわけですね。
西欧の自己批判
宗教批判、科学、ニーチェからのポストモダン思想、人類学、グローバリズム的普遍性へ
そんな普遍性の万歳のヨーロッパ哲学に対しても、西欧で激しく自己批判がなされるようになりました。まずは啓蒙思想による宗教批判、さらには科学による宗教批判。理性的に考えたら、宗教なんて、碌でもない教義を信じて殺し合っちゃうバカな迷信だよね、ということです。それよりも科学的な知識の方がよっぽどパワフル。汽車から自動車、飛行機から宇宙ロケット、原子力から核ミサイル。インターネットとスマホ。さらにはAIと。テクノロジー、テクノロジー、イノベーション、イノベーション……。宗教は科学に取って代わられてしまったと、そんな気はします。
さらには、西欧の進出が世界隅々にまで行き渡り、民俗学的、文化人類学的考察が深まるにつれ、西欧の真理って、そんなに普遍的じゃないよね、という話が出てきました。そもそもがニーチェという大天才がいて、キリスト教内部から、ヨーロッパの哲学の内部から、全てを内破して、ヨーロッパの真理など、キリスト教など、卑屈でルサンチマンに満ちたひねくれ者の論理なのだ、と言い切ってしまったのです。ハンマーの哲学で、形而上学を破壊してしまうニーチェ、ここから現代思想、ポストモダン思想が花開いたのは周知の事実でしょう。そこに認知人類学、文化進化論、遺伝動物学など、テクノロジーの恩恵を受けた科学的知識が積み重ねられていきます。今や19世紀の、20世紀のヨーロッパ的普遍性は、テクノロジーと科学によって乗り越えられ、新たなグローバリズム的普遍性に脱皮しようとしています。
文化相対主義とポストトゥルースの時代
欧米が掲げる普遍的真理、これが胡散臭いぞ、という話にな理、文化相対主義が唱えられ、さまざまな科学的知見、疑似科学的知見が積み重なり、世界は混沌としていきます。そして最近はやりのポストトゥルース的な世界観が立ち現れます。それぞれの文化にはそれぞれの習慣、思考方式、さらには真理があって、欧米流の真理だけが真実ではない。まあ日本人にとっては、至極当たり前な話なのですが、そんな言葉も流行ったりするわけです。そんな世界がインターネット、SNSの世界的普及と共にやってきたわけです。
世界哲学と日本思想
脱西欧の難しさ
そんな世界の思想史のうねりの中で、近年とみに脱西洋哲学の動きが出てきています。西欧中心主義もいい加減にしようじゃないか、というわけです。しかしながら私見ではこれはなかなか難しい。そもそも哲学という営みはその成り立ちから言って、古代ギリシャ•ローマから今現在まで永遠と続く西欧のお家芸です。普遍性をめぐる概念的装置、考え方に関してヨーロッパ言語文化が非常に大きな影響力を持っています。さらには今の世界秩序は法的にも軍事的にも経済的にも西欧が作り上げたルールで動いています。世界の中で欧米化の影響を受けていない国などないと言っていいでしょう。そんな中、普遍性を考えるとどうしても西欧的な普遍性に引きずられる、という傾向があります。それは西欧による自己批判があったとしても、やはりそうなってしまうのです。日本思想の中にも西欧哲学との対決を通して、日本独自の思想を作り上げようとした大哲学者がいます。例えば西田幾多郎、和辻哲郎などですが、やはり彼らも西欧哲学を積極的に取り入れて、自分の思考を展開していったのです。
そんな事情もあり、哲学にあっては世界的に欧米の言語文化をベースとした思想家がトップに位置し、彼らの立論がもっとも説得力と影響力があるわけです。非西欧社外からでた哲学者はどうしても傍系になってしまいます。従って哲学、思想の世界では欧米コンプレックスがなかなか無くならない、というのが実情でしょう。
そんな中でいかに日本思想を語れるのか?非常に困難な課題です。どうしても西欧的な言説に、考え方に引きずられてしまうのです。そんな気はなくとも、ハッと気づくと西欧思想の輸入屋さんになってしまう、ということです。
脱西欧思想へ
まあそんな逆風はあれど、それでも日本語で誠実に哲学していたら、きっと面白いことが言えるだろう、という見通しも立ちます。それは日本語という概念装置、さらにはそれと緊密に結びついた様々な慣習、風習、感性を含めた、文化パッケージの力によります。丸山真男が「無構造」と呼んだ、なし崩し的なカオスとしての日本文化です。それは先に言及した、節操のない統一性のない、ヤオロズの神的な、多様性の文化です。その中に対立があったとしてもそれはなあなあになってしまう、ヤオロズの神的な感性です。そんなところに注目しつつ、上辺だけの西欧的言説に惑わされない、というのがやはり、日本思想を考える上での基本方針になるわけです。
批判的考察
とここまで書いてみたものの、ざっくりこんな批判点を挙げるのは容易い。
西洋哲学の普遍性に対する過度の一般化: 西洋哲学内でも多様な思想が存在し、全てが普遍性を目指しているわけではない。
日本文化の描写の単純化: 日本文化の多様性や複雑性を「ヤオロズの神」というアニミズムに帰結させている
文化相対主義への傾倒: 文化相対主義の視点から西洋哲学と日本文化を対比することは有益だが、それによって他の文化圏の哲学や思想が疎外される可能性がある。
科学と宗教の関係の過単純化: 科学が宗教を「否定」したという表現は、科学と宗教の複雑な相互作用の歴史を無視している。
ニーチェの解釈の偏り: ニーチェの哲学を形而上学の破壊者としてのみ捉えるのは幼稚。
グローバリズムへの批判の不足: 現代のグローバリズムがもたらす、文化同質化に対する視点が不足している。
ポストモダン思想への言及の欠如: ポストモダン思想が西洋哲学の普遍性にどのように挑戦しているかについての曖昧。
文化的ユニークネスの過剰強調: 日本文化のユニークネスを強調しすぎ。ネトウヨか。
哲学の定義の狭さ: 哲学を西洋の産物として定義することで、非西洋圏の哲学的思考や伝統を過小評価している。
現代社会への適用性の問題: 西洋哲学と日本文化の対比を通じて得られる洞察が、現代の多文化社会やグローバルな課題にどのように適用可能かについての議論が不足している
さて、どうしたものかな。。。。
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