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説明しないなら私が説明

弱り目に祟り目とはこのことでしょうか、今回はもう下がりようのない岸田君の支持率より、自民党の支持率のダウンが足を引っ張るのではないでしょうか。年末に危険水位に達しそうです。

これらを見て思うことは5つあります。

まず一つ目は「政治は金がかかる」という大前提を肯定してはいまいか?ということです。

ご自身の懐に入れるのは言語道断ですが、そもそも裏金疑惑を持たれるほどお金を集めるのはなぜでしょうか?
それは当然ながら支出先があるからに決まっています。その支出は必要なもの?うやむやになっている文書交通費問題も、その使途が不明瞭なのが問題なのに、そこにはメスを入れずに税金から支出する支給額に話が向かっているからおかしなことになっていると思います。

わが広島には「金権政治」をまざまざと見せつけた河井夫妻がおります。彼らからそれを貰った地方議員は「モチ代、陣中見舞いを貰って何が悪いか」というのですが、このご時世「モチ代、陣中見舞い」を貰う意地汚さを、自分の正当性の材料にするというのが信じがたいです。
私は給料以外で万を越えるお金を誰かからもらったのは、大昔親からもらったお年玉以来ありません。10万以上のお金を貰って平気でいる厚顔が信じられませんし、そういう輩はまた平気でお金を配る人でもあるのだと思います。
そもそもこの大前提の「政治は金がかかる」という刷り込まれた発想を捨ててかかる必要があるのではないでしょうか。

二つ目はいかにええ加減な会計をしているかということです。

私も中小零細企業の経営者なので、お金については当然ながら収支、入りと出をはっきりさせますし、出については税務署も厳しいので経営者と言えど不明瞭な支出は出来ないような二重三重の仕組みにしています。
国民には国税庁、インボイスや電子帳簿保存法など、かつて以上にがっちりと懐の中を見る癖に、議会のお歴々は何といい加減、お手盛りなことか。電帳法を政治団体に完全に適用し、公開義務を課せれば、領収書1枚まで残るわけですから、変な支出など出来ません。

西郷隆盛は南洲遺訓の中で
「萬民の上に位する者、己れを愼み、品行を正くし、驕奢を戒め、節儉を勉め、職事に勤勞して人民の標準となり、下民其の勤勞を氣の毒に思ふ樣ならでは、政令は行はれ難し。」
と言っておられます。「人民の標準」がこのええ加減ですから…。

三つ目は総理と総裁の立場、使い分けの矛盾です。

ここ何年も自民党の内部の問題があり、あるいは議員の問題がありますが、それに対して内閣総理大臣(自民党総裁でもある)は、「党のことだから党に聞け、幹事長に聞け」と言います。
しかし幹事長がきちんと話をしたためしはありません。会社で言えば執行役員(幹事長)に全部押し付けて逃げる社長はいませんし、許されません。
執行役員が説明不十分なら社長が答えるのが当然。
派閥の問題であっても党内(社内)の問題なら事実関係をはっきりとさせるのは社長の責任です。
もちろん議員の不祥事があったら、その議員を党所属議員として認めているのは総裁ですから、総裁に責任がないことなどありえません。仮に解雇したとしてもその社員の不祥事について社長が責任を回避することなど出来ようはずがありません。
安倍時代からこういう使い分けをして、総理が総裁としての責任を回避するのが顕著、これも安倍の詭弁政治の残骸でしょうか。

四つ目は世襲議員の補強です。

「政治は金がかかる」というのを前提にすると、その集金マシンそのものも引き継ぐ二世議員しか政治家になりづらいという、今の現状の仕組みを補強することになるということです。集金できない人は政治家にはなれない、もちろん誰からかお金を貰ったら、結局その人の言うことを聞かなければならないでしょう。例としては、世襲でない萩生田氏が財布を旧統一教会に依存していたことを忘れてはなりません。

最後の五つ目は「出を制限する」です。

これは対策になりますが、「金がかからないようにする」には二つ目にあげたように、入りばかり見るのではなく、政治家の支出の制限をすればよい。簡単に言えば支出の、限度額を決めればよいのではないでしょうか。
出が抑えられれば必要な入りにあくせくしなくて良い。金集めが目的のパーティーなんかしなくて良い。
制限されれば陣中見舞での金のやり取りも難しくなり、結果として簿外でそういうやり取りがあればアウトにすればよいのです。
国会議員であれば支出はいくら迄と決めて、それ以上使った場合は限度額内を含めて領収書一枚一枚を公開する。限度額以内であれば支出明細の公開までで可。
もちろん議員の支出制限額は、消費者物価指数に対応して変動すればよいと思います。


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