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みんなちがって、みんないい

どうして比べるのかね

政治家って比べたがる人種ですね。隣の芝生は青く見えるといいますが、比べて自分が青かろうが茶色かろうがどうでもいいじゃないですか。
私の祖父、私の母の生まれたのは磐田ですが、それでもそもそも「磐田」が知事が言うほどそれほど文化的とは思いません。普通でしょ。

そういえば私が小学生頃、毎年ではありませんでしたが、夏休みにお袋に連れられて妹と1週間くらい磐田のお袋の実家に遊びに行ったことがありました。

まあ磐田と言っても今のヤマハスタジアムに近いあたりなので、相当田園風景でありましたので、私の子ども時代の故郷の風景として深く印象づけられています。当時広島では今の会社のある場所(中区堺町)に家があったもんで、まあいわば近所に田んぼや畑なんかはない都会っ子だった…。所詮広島ですが。

そういった60年近く前になりますが、新幹線も無い時代でしたので夜行列車で磐田に行ったのですが、その時お袋が必ず手土産として持って行ったのが「牛肉」でした。わざわざ牛肉?
その頃磐田というか、名古屋から三河、遠州界隈で「すき焼き」と言えば「鶏」、「ひきずり」でした。

私もお袋の実家で飼っていたにわとり(毎朝鳥小屋に卵を取りに行きました)で少々産まなくなったものを、裏庭で締めてそれですき焼きを頂きましたが、命を頂くというそれは都会っ子だった少年時代、強烈な思い出でした、

恐らくお袋にとって、広島に嫁に来てすき焼きを食べた時、鶏でなく牛肉だったのがよっぽど印象的だったのではないでしょうか。両親や親戚に食べさせようと近所の肉屋で牛肉を買って、大事に持って行ったわけです。

そんな磐田ですから県知事が言うほど文化的云々とはあまり思わないですが、それでも食文化としては金子みすゞが言うように「みんなちがって、みんないい」「牛もいいけど鶏もいい」という思いなんです。比較すること自体お粗末なこと、文化的ではないんじゃないかと思います。

タイトル写真は両親といった伊賀上野で食した「牛」のすき焼きです。松坂牛でなく伊賀牛でしたが、いやいややっぱり美味かった。松阪牛と伊賀牛を比べることも全く無意味でありましょう。
「松坂牛もいいけど伊賀牛もいい」

比べる人というのは、他者の喜びを喜べない可哀そうな人なのだと思います。他者の喜びはもちろん自分の不幸ではないし、他者の喜びを少しでも共有できることは素晴らしい事でしょう。カップルになって一番良い事は、自分の喜びを相手も喜んでくれることだし、逆もまたそう。
相手が嬉しいことが1だとすれば、自分の喜びも0.5位感じられれば1.5の喜びになります。他社の喜びを自分の喜びとして感じられるのがカップルの一番素晴らしいところ。
また逆に悲しみも共有することで少し減ることができると思います。喜びは足し算だと思いますが、悲しみは引き算。相手が1悲しいとして、自分がその悲しみの幾分か、例えば0.2位引き受けてあげれば、二人の悲しみは0.8になります。
共有とか共感とはそういうことでは?私はそういう生き方をしたいと思います。

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