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社会はデジタルではない

目の前に課題がありその選択をしなければならないとき、道のように2つしか選べないわけじゃないので、私は二極化のどちらかを選ぶことが知恵だとは思わない。つまり右と左の両端に答えがあるわけではなく、その間のどこかに答えがある。いやその答えの位置は常に動いていて、その時の最適値に過ぎない。そうかんがえるのだ。

今は右か左か、1かゼロかの二択を求めるが、それ自体がおかしいし、そのことはまた1という答えを選択した瞬間に0については全く無視してよいという空気も生む。政治の場でもウィナーテイクオールで、少数意見は「尊重」と言いつつ実体は「慇懃無礼」に無視というのが、特にここ10年当たり前のようになってきてはいまいか。

今あるのはロシアかウクライナかの二択みたいなことだが、今手に入る情報が正しければウクライナだが、それが正しいのかはわからない。一つ言えるのは直ちに戦いをやめることは正しいと思うだけだ。

「機を見るに敏」というのだろう、隣家の火事をもっけの幸いと、核兵器の共有なる言が突如浮上し、一気にそれを進めようとする輩がいるように思える。その中で非核三原則の見直し、定義を求める人がいるようだが、本当に乱暴だと思う。非核三原則が曲がりなりにもあったからこそ、我が国は平和だったと思うし、その三原則の定義もまた「あやふや」であったことがそれを実現したと思う。実際「もちこませず」は日米の暗黙の了承があったことはわかっている。だけど空虚な三原則だったとは言えまい。「もたない、つくらない、もちこまない」その真偽や定義を明確にして何が生まれる?日本国民だけでなく外国の国もそれを知るわけである。事細かく定義がされれば、相手方も「ははぁ、ボチボチ使うかな?」とか思うが、不明瞭だったら「使うんかな?使わんのかな?」「あるんかな?ないんかな?」と思うだろう。不明瞭、1か0にしない方が良い事もある。

こういうのが知恵だと思うが、これは我が国だけの話ではない。尖閣諸島の問題についても、先日亡くなったポピュリスト政治家が「自治体が買う」というので薮をつついて、火まで点けてしまった。結局最終的に国がいやいや買ったが、あそこは鄧小平氏が言っていたように

「われわれの世代では知恵が足りなくて解決できないかもしれないが、次の世代は、われわれよりももっと知恵があり、この問題を解決できるだろう。この問題は大局から見ることが必要だ」

つまり「白黒つけず棚上げ、後世の人に考えてもらう」という曖昧さが良かったのだな、本当に知恵ある言葉だと思ったし、大人(たいじん)とはこういうものかと思ったのだ。それが知恵のない政治屋が二極化しようとしたお陰で、未だに火種になっている。大人と対比するだけに、お亡くなりの某氏の小人(しょうじん)がまた際立つ。

答えは二択ではない、また今決めなければいけないものもあるだろうが、そうでないものもある。世界は決して単純なものではない。

白黒つけない所にも意味があり、それをするのがかつては政治家だったし、鄧小平氏のように決めないという決断もあったはずだが、短絡的に二極化した答えを出させようとするのは「答えを出す事、決めることが大事」というコンサルティングファームの手法である。コンサルは決定案というアウトプットを出さないとお金もらえないからね。

デジタルは1か0だが、人間、社会はアナログなものなのだ。そして時間もある。そこに知恵の出番がある。

タイトルの写真は今年の正月、宮島で引いたおみくじです。「人のいけんをききて こころながくことをはかるべし」とありますな。

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