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令和言葉は建前を捨てただけ

時代と共に言葉は変化するものです。かつての意味が全く違ったものになるというのは、毎年文科省から出ていますね。

令和になってからは、意識的に意味の変わった(変えた)言葉がさらに増えたように思います。
例えば

「責任を取る」というのは
「(シカトして)居座る」という意味になったようですし。

「丁寧に」というのは
「放置し、忘れられる時期を待つ」という意味。

「有識者」というのは
「お上の意向をすり替える輩(勲章や役職のお土産付き)」

「ジャニーズ」というのは
「親分に性犯罪者がいても知らんふりする組織」

「極めて遺憾」というのは
「相手が怒っているが、何がいかんの分からない時にとりあえずいう言葉」

「ご都合主義」というのは
「憲法解釈を自由に変更しても良い」という意味。

「閣議決定」というのは
「自分だけの思い付きでルールを決めても良い」という意味。

これもまた令和言葉でしょうか。

「核なき世界」というのは
「やっている感」という意味。

さて、先日読んだのがこちらの本でした。とても素晴らしい。

ただこれを読むと「令和言葉」というのは「令和」になって生まれたものではなく戦前から脈々とあった言葉であることに気が付きます。
建前や、本音をほのめかすのではなく、今や本音をむきだしにしているように思います。
それが日本人、日本の組織にしみついてしまっている事実、どうにもならない現状を突き付けられているのだとも思えて愕然とするのです。

各章の内容も現在の出来事と重なる指摘がありました。それは

帰還者の伝言→日大アメフト悪質タックル問題
勇士の反逆→ブラックバイト、派遣切り
帰還者の隔離棟→(森友学園)赤木さん
殴られた参謀→財務省文書改竄問題
教官の出撃→自己責任論
司令官の戦後→うやむやなトップ責任
記録作家の執念→ご都合主義
記録作家が遺したもの→東京五輪、国葬議、福島原発、自粛警察
エピローグ→さらに詳しく指摘されていますので、その部分を無断引用。

「記憶は鮮明なのに、なぜその部分の記述はないのか。たどり着いた答えは2つ。当時の戦史室は旧軍関係者も多く、元上官の菅原元中将に断られて諦めたか、そもそも忖度してあえて触れなかったか。歴史として後世に残す以上、至った過程を記さなければ、検証は不可能だ。責任に触れないという組織の論理が垣間見えたように思えた。
国が責任と向き合わない構図は2020年秋、当時の菅義偉首相による日本学術会議の会員候補6人の任命拒否に重なった。6人は安全保障関連法や特定秘密保護法などに反対していたが、菅首相は「総合的、俯瞰的」といったあいまいな説明に終始した。 岸田文雄首相になっても明確な説明はない。政府は会員選考方法を変える法改正案の今国会の提出を見送ったが、会議のあり方の議論を続ける構えだ。それは論点をすり替えてでも任命拒否という既成事実を正当化しようとするやり方にも映る。
特攻機が敵に被害を与えた戦果も見直しが必要かもしれない。修士論文を執筆した際、協力してくれた、生き残り特攻隊員の大貫健一郎さん(1921~2012年)は、私が論文で「10%台前半」とした戦果について厳しい口調でこう言った。
「これはうそだ。敵艦を撃沈させたということを戦果とすれば1%ぐらいだ」
研究に基づいた数値を間違えたわけでない。問題にしたのはその定義。大貫さんは、隊員の命と飛行機を犠牲にしながら、敵艦はほとんど損傷を受けず、すぐに戦線に戻ったケースまで特攻機の戦果としていることに違和感を持っていた。本当は、戦果も挙げられず、多くの戦友が無駄死にしたのだ。
海軍航空特攻を始めた大西瀧治郎中将 (1891~1945年)は当初、「少なくとも空母の甲板を1週間使用不能にしたい」と狙いを語っていた。それが実際沈めた特攻機が出るや、軍の上層部はいつしか過大な戦果を期待するようになった。 撃沈だけを戦果とすれば、大幅に減る点を踏まえると、「特攻推進者が責任逃れで作戦の成果を数字で強調したのではないか」という大貫さんの見立てに合点がいった。
これは、まさに18年末に発覚した厚生労働省の毎月勤労統計の不正に重なる。前年までと算出方法を変えた結果、同年の賃金伸び率が過大になり、「官僚が賃金を良く見せようと忖度したのではないか」という批判が出た。 功罪の論拠として扱われやすく、うのみにしがちな数値すら、実は権力側で操作されているかもしれないというのは衝撃的だった。
戦後78年。気付けば政府は22年12月、反撃能力 (敵基地攻撃能力) 保有を明記した安全保障関連3文書を閣議決定した。 憲法9条に基づく「専守防衛」の基本姿勢からの大きな逸脱にも見える中、国会でも行使事例を示さなかった。」

太字部分は私がしました。
また文中の「大貫健一郎」さんは大貫妙子さんのお父さんです。大貫健一郎さんの著書にも「特攻のメカニズム」で触れられている「振武寮」のことが詳しく書かれています。


またタイトル写真にも並べて入れましたが「日本人が移民だったころ」(寺尾紗穂)も同じ時期に読んで、感銘を受けました。

広島県や山口県はもともと移民県という意識はありましたが、多くの移民先はハワイ、北米。戦後はブラジルだったと思っていましたが、この本では戦中のパラオ島の南洋諸島や台湾があったこと。
さらに敗戦後も帰国して国内の開拓地に入り、さらに苦闘したものの生活が困難でペルーやパラグアイに再度移民した(日本→パラオ→日本→パラグアイ。みたいな感じ)人も少なかったというのは全く知りませんでした。

先の「特攻のメカニズム」もそうでしたが、この「日本人が…」も、優れたオーラルヒストリーを掘り下げて生まれたもの。もちろんそれぞれの人の状況は異なりますが、共通していると感じるのはその背後の国の冷たい姿勢があったこともよくわかりました。

驚いたのは残留孤児の個所でした。
残留孤児は旧満州がクローズアップされ残留孤児の帰国、支援のために「中国残留邦人等帰国促進・自立支援法」があるが、その支援法は南洋孤児に対しては想定外で適用されないとありました。
私も残留孤児=満州という固定観念があり、それ以外我が国が移民で出した先があることを無意識のうちに排除していたように思います。それに気づかせてくれた寺尾さんに感謝したいです。

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