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よあけ

神戸新聞の電子版の記事が目に入り読みました。

恥ずかしながらこの「よあけ」を書いた「ユリ・シュルビッツ」さん、全く存じ上げませんでした。
でもこの記事を読むとどんなインパクトがあったのか知りたくなり、図書館で検索をしたらありました。

あわせてシュルビッツさんの少年時代の自叙伝
「チャンス はてしない戦争をのがれて」も借りました。先に注意しなければならないのは、原題は「CHANCE : Escape from the Holocaust」であるということでしょう。そう、ユリさんはポーランド生まれのユダヤ人なんです。

最初に「よあけ」の感想ですが、この絵本の絵を見てすぐに「これ辻まことだ」と思いました。
登場人物のお爺さんは辻自身ですし、子どもはオトカム、あるいはアダモでしょうか。
湖もアダモ(すぎゆくアダモ)なら火口湖ですし

「すぎゆくアダモ」から


オトカム(山からの絵本)なら西湖畔のツブラの入江になります。

「山からの絵本」から

どちらにしても辻まことと同じように風景を素晴らしく描いた絵本で、絵からの空気感、透明感は共通しています。
「よあけ」を朗読するのはとても難しい事だったと思いますが、一方でそれを聞いた少年が受け止め、脳裏に浮かんだのはこういった光景でしょう、彼の感受性にも深く感心します。

一方「チャンス」はユダヤ人であったユリさん家族の壮絶な逃避行の記憶。

ナチスドイツによるワルシャワ空爆からソ連に逃げたのはまだ4歳の時。ウクライナにしばし住んだ後は、ソ連政府によりバレンツ海近くのユダヤ人キャンプに、さらにカザフスタンに移ります。この頃小学生に入りますが、ナチスが敗れ、無賃乗車を繰り返し、間違えてモスクワに寄ったりしつつようやくワルシャワに戻ります。

脱出行と帰還(新たな逃避)行

しかしナチスがいなくなったポーランドでは、今度はポーランド人によるユダヤ差別があり、早々に家族でチェコ、オーストリアに移り、親戚のいたパリに着きます。しかしフランスの生活も苦しくて2年ほどで建国早々のイスラエルに移住。その時はユリ氏は14歳なのでなんと10年間も難民、あるいは無国籍でした。

ユリさんの記憶は今のウクライナと重なります。もちろんシリア難民、アフリカからの難民、中南米から北を目指す難民でも共通、今の記録と考えてもいいように受け止めました。

そしてユリ氏が繰り返し苦しかったこととして書いているのは空腹、飢餓についてです。カザフスタンでの場面

「このころ、ぼくらはいつもおなかをすかせていた。くさった残飯でもいいから見つけようとしても、通りにはゴミ箱さえない。食べるものは何もなく、みんなせっぱつまっていた。
飢えというのは、経験したことのない人に説明するのはむずかしい。ぼくの胃は、ほとんどいつもからっぽだったので、まるで胃液で体が中からとけていくような気がしていた。」

そして胸を掻きむしられる思いがした場面。第4章の9段。

「食べるものも、お金もなくなって、ぼくらは出かけていった。
トマト畑にやってくると、太陽の下で赤い実が静かに熟れていた。
お母さんはせっぱつまって、頭がおかしくなる寸前だった。
そして、ずいぶんまよったあげく、ききかえさなきゃならないほど小さな声でささやいた。
「ウリ、トマトをとってこられる?」
ぼくは小さな穴をくぐりぬけた。
畑に入ると、大きなトマトを二つもいだ。
塀にむかって走ったが、体が弱っていて、速く走れず、すぐにつかまった。
カザフ人の農業労働者は、トマトをひったくり、ぼくの顔を思いきりなぐった。
ぼくは2、3メートルぶっとび、地面にたたきつけられた。
じっと動かずにいると、カザフ人は横に立ってしばらくようすをうかがっていた。
ぼくにはものすごく長い時間に思えた。
ようやくカザフ人がいなくなった。
顔がひりひりと痛かったが、穴をくぐって畑の外に出ると、よろよろと歩いてもどった。
お母さんは真っ青な顔をしていた。
「ああ、神さま」お母さんは、半分ひとりごとのようにいった。
「なんてことをしてしまったんでしょう。トマトひとつのために、おさない息子の命を危険にさらすなんて。こんなことはもう二度と、ぜったいにしません。二人で死んだほうがましです」
あとは、だまって家まで歩いた。

これ以上みじめなくらしがあるだろうか?
これは、ぼくのもっともつらい記憶のひとつだ。」

先日、飽食三昧の日韓のトップのことを書いたが、2人には是非、この「チャンス」を読んでもらいたい。

そしてこの本と並行して読んでいたのが「ぼくの伯父さん」ジャック・タチの映画のテキスト版です。
この映画は1958年封切りなので、ここにあるパリの風景はユリの住んだ時期の10年くらい後になるかもしれません。主人公のジェラールは小学生なので、時期的なずれはありますが、ユリとのあまりの違いに悲しくなり、なかなか心に入りませんでした。ちなみにジェラールの両親はプチブルなので、食べることには全く不自由ないこともまた…。

そして子どもではなく女性について戦争の悲惨さを強く感じた、こちらの番組がありました。また沖縄における奄美差別のことも知りました。

この中にベトナム戦争の時期にコザの米軍基地の近くの歓楽街に、多くの米兵が来ることが描かれていましたが、戦争初期の歓楽に比べ、中期以降は荒み、末期は強姦や殺人が日常的になっていった記憶も語られていました。そう、狂っていくんですね。ユリの母親も襲われかけたし、恐らく今のロシア・ウクライナでも報道はされませんが、銃後の悲惨な日常もまたあるのでしょう。つらい。


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