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枝分かれの先に

「ごまかさないクラシック音楽」(岡田暁生 、片山杜秀)はなかなかの本でした。そう言えば当たり前のことなのだけれど、それが纏まると、なるほどと感心する。

クラシック音楽と言われるものを「バッハ以前」「バッハ」「ウィーン古典派」「ロマン派」「終焉」と大きく分けて語られるのですが、結局音楽(芸術一般も)にはお金がないと生まれないという所から解きほぐします。つまりその作曲家のスポンサーは誰か、ということです。

「バッハ以前」は諸侯、地方貴族というのが金を出して、自分のサロンで演奏する小編成の音楽を創らせた。

「バッハ」は王様と教会が結びついて、王権神授説のように壮大な教会音楽、またゴチック建築のような計算しつくされた壮麗な音楽は、王様と教会が目指している世界観であることを見せつけた。

「ウィーン古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)」はスポンサーであった王侯貴族の懐具合が悪くなり、一般にターゲットが移り、それら世間に受けるような音楽、それもベートーヴェンのように、マーチ風のそれいけやれいけ、という今の全体主義の萌芽が生まれた。

「ロマン派」はドイツ・オーストリアに対するフランスの個人主義(背景にフランス革命)の巻き返しに民族主義(国民音楽)が混ざっていく。
この中にはショパンのようにさらに小さなサロン・音楽教師として3分程度の小品で勝負する人も生まれるのは、上手な素人がチャレンジしやすい市場開拓に目をつけた先見性。
一方ワーグナーのような3時間以上の大作で、独自の世界観を構築する(ゲームの世界)という自分の世界で完結させる、いわば全体主義の音楽も生まれます。もちろんスポンサーは帝国主義、全体主義国家。

「終焉」になるとではシェーンベルクとストラヴィンスキーがそれまでのクラシック音楽を強制終了させたとしています。その後に生まれた様々な音楽ではショスタコーヴィッチ以外でほとんど交響曲が生まれていないのがその一例。ショスタコーヴィッチはソ連という独裁国家がスポンサーで、スターリンの意に沿う音楽に寄り、国民を鼓舞したということです(見方は単純じゃないですが)。

その後はバッハ以前からのクラシック音楽としての系図は、ある程度の太い幹ではなく、枝程度に分散されていきます。それは冒頭にも書いたように金を出すスポンサーではなく、金を薄く広くかき集める社会システムに移ったから。

不毛の30年?

岡田 しかし、「それ以降」が問題です。 一体なにか本当に重要なものが登場してきただろうか? かつてのシュトックハウゼンやケージに比肩する前衛作曲家なんて、誰もいないんじゃないか? いや、ポップスだってジャズだってそうかもしれない。ビートルズやマイルスやコルトレーンやマイケル・ジャクソンに比肩する影響力をもった人が誰かいたか….?
残念なことだけれども、冷戦後30年間の音楽史は将来、「何も生み出しえなかった不毛の時代」「過去のコピーしか生まれなかった時代」 「新自由主義勝ち組にターゲットをしぼったバブリーなグローバル時代」として振り返られるんじゃないか?

片山 進歩の夢が最終的に挫けてしまった。あるいはもう満足したからいいやという時代に入った。東西のイデオロギー闘争も終わった。それは政治的・経済的な闘争だったけれど、それが終わってしまったのに文化闘争だけ続くということもない。西側に限ってみても、何が進歩かという前衛の主流の覇権を取りにゆく闘争があり、そこで反動扱いされるものと前衛派との闘争もあった。繰り返しますが、西側に於いては自由と進歩がおのれの文化の存在証明になって、 その証明のために国家や大企業が資金を出すので芸術家間の資金獲得競争も生々しいものだった。それがみんなふっとんで、資本主義の論理だけが残った。そうなると価値を問うて争うてももう仕方ない。 支持率競争や視聴率競争と同じになって、聴きたいものが聴きたい。それだけになってくる。何が進歩か前衛かなんて、論点にならない。前衛がなければ反動も保守もない。みんなOK。価値観の多様化とか、多元化とかの時代になって、結局、主流がなくなって、みんな枝分かれしたままとなり、誰もがいろんなものを楽しめるようになった。見方を変えれば、人類の進歩とリンクして未来の美意識を確立するのがクラシック音楽の作曲家の使命だなどというベートーヴェン以来の理念の無効化が最終的に宣言された。誰かが宣言しているわけではないのですが、時代精神というものがそう宣言している。 あとはもう好みでしかない。そういうの聴くんですか、僕はこういうのを聴くんです。 それで昔は喧嘩になりましたよ。 でも、もうならないでしょう。それはつまり終わっているということだ。

(中略)

岡田 しかしこの30年で、前衛音楽だけではなく、クラシック音楽の「巨匠」も、もののみごとに絶滅しちゃいましたね。冷戦が終わる1990年前後というのは、偉大な音楽家が次々に世を去った時期でした。1989年にカラヤンとホロヴィッツが亡くなり、翌1990年にバーンスタインが亡くなった。 他にもいっぱいいる。「ビッグネーム」は1990年ごろにいっせいに消えた。そして彼らは、20世紀生まれではあったけれども、19世紀文化の残照の中で育った世代でした。クラシック音楽の黄金時代である19世紀の空気を、20世紀の私たちに伝えてきた巨匠世代です。日本で言えばこれは、昭和天皇の崩御の時期だから、平成の「失われた30年」はそのまま音楽についても言えるのかもしれない。
これはクラシックや前衛音楽だけではなくて、ポップスや日本の歌謡曲やジャズについても言えることだろう。滅法うまい人、すごく個性的な人、とても音楽的な人はいっぱいいるんだけど、「歴史を作る人」がいなくなった。でも業界的には「このジャンル、もう終わってない?」と認めるわけにはいかないから、なんとか蘇生措置をしなくてはいけない。あらゆる戦略を動員して、そのジャンルが生きているように演出しないといけない。

片山 学者や評論家も同じ穴のムジナですよ。音楽業界が存続していることを前提にしないと仕事ができないから困る。だから、業界向けのプロパガンダ学者がたくさんいる。

岡田 残念ながらそのとおりですね。ちなみに先日、きわめて有名なある国際ピアノコンクールの中継をBSで観たんですが、正直レベルがかなり落ちていると思わざるをえなかった。 こんなことじゃ業界の自作自演イベントとしてしか成立しなくなってしまう。

片山 きっと、そうですよ。」

本当にズバリだと思います。歌謡曲(Jpop)でも妙に上手いが薄っぺらい人が多い、逆に今、民族音楽とか民謡に回帰を感じて人が増えているのは、そこにはまぎれもない「歴史」という太い樹がまだ残っているから、そしてそこから太さ(領域)のある幹が伸びる可能性を感じている人が少なからずいるからではないでしょうか。

あるいは片山氏のあとがきに紹介された海野十三氏の「十八時の音楽浴」、これがクラシックの行末なのかもしれませんが。


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