見出し画像

「ひかりのほうを」と「北町貫多」

図書館で本を借りることが多いが、ふと知らない本を選ぶこともある。作家も知らないし、内容もわからないが、つい…これは本に呼ばれたとしか言えないのだが、先日借りて読んだ「家族」(村井理子)もその一冊。やられました。

私は、毎年自分なりに上期読んだ本、下期読んだ本のベスト5を選んでいる。もちろん読んだタイミングがその時期で、とっくの昔に出版されているものも多いのだが、その時は「ああ、知らなんだ」と感慨にも浸ることができる。

今回の「家族」はそれこそ今年出たので、この上期の賞レースの対象にもなるのだと思う。どういうジャンルになるのだろうか、ジャンル分けはあまり意味がないと思うのだけどね。

これは村井氏ご自身の家族の話なので、ノンフィクションに該当するのかもしれないが、家族それぞれとの関係の上にご自身の感情が吐露されているので、私小説ではないかと思う。

私は私小説がもともと嫌いだった。なぜ自分の生き方を赤裸々に世間に魅せるのだ?と思っていたからなのだ。実は私の親父も家族のことを第三者(取引先が多かったが)に話すことが多くとても嫌だった。自分のことなら勝手にすればいいが、家族のことまで…。これが私小説嫌いの原点だったかもしれない。しかし車谷長吉氏の一連の作品を読んでその間違いに気がついた。私小説以外でも作家は架空の主人公を借りて自分自身の心を赤裸々に吐露しているではないか。車谷氏の作品を何作か読む中でそれにようやく気がついたのだ(小説に限ってだよ)。


だからこの「家族」はエッセイやノンフィクションとして読むのではなく、作品の持つ普遍性は小説だし、作品の世界の迫力も並大抵のものではない。車谷氏が直木賞を取ったように、「私小説」として評価するべきだと思う。
まぁ今回は候補にならなかったが。

トルストイの「アンナ・カレーニナ」にある名言に

「幸福の形はいつも同じだが、不幸の形はそれぞれ違う。」

というのがある。家庭の形もそれぞれ違う、それは当たり前のことで村井氏のような家庭もあれば違う形ももちろんある。そこで思い出したのが「手から手へ」という池井昌樹氏の詩集(植田氏の写真とのコラボ)だ。村井氏の両親からの形と、この詩の親子の形はあまりに違うが、全ての家庭は多くがこの間のどこかにあるのだと思う。こちらのブログに池井氏の詩が掲載されているので貼り付けておこう。今日のタイトルはその一節からです。

さて私小説と言えば西村賢太氏もおられたが、氏の遺作「雨滴は続く」を読んだが、人間の心の奥底にはこういうものがあるのかと、ハッとするような赤裸々さだ。もちろん読まれることを意識して課題に書いていることもあるのはもちろんだろうが。その心の底の汚れた部分のさらに掘り下げる所に人間の本質があるという期待もあるのだが、氏の急逝によりそれはうかがえぬままとなった。自分自身で掘り下げねばならんな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?