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The Man In The Moon

ふとした時に流れてきた音楽、聞いたことがあるようなないような、そんな経験は皆さんあるでしょう。最近便利になったなあと思うのは傍らにあるスマホのアプリを動かせば、その音楽を検索して「これではないでしょうか」と教えてくれます。去年入った吉舎の豆腐屋で豆腐定食を食っている時にふと耳に入ったBGM、これなんだっけ?と調べると「レイ・ブライアントのブルーモンクでは」とすぐ教えてくれる。「ああ、そうそう、持ってるやつじゃ」

先日もラジオから流れた曲がありました。番組の中の曲なら番組のプレイリストを調べればわかるのでしょうが、これはCMの時間にCMが流れない局で代わりに流すCMフィラーというものらしいです。

アプリで教えてもらった曲名が「The Man In The Moon」谷川賢作というもの、またそれが入っているアルバムのタイトルは「クレーの天使~谷川俊太郎+谷川賢作 音楽編~」というもの。
谷川俊太郎の詩に息子の賢作氏が曲をつけたということでしょうか。谷川氏の同名の詩はマザーグースのものですが、これなのかな。

The man in the moon
Came down too soon,
And asked his way to Norwich;
He went by the south,
And burnt his mouth
With supping cold plum porridge.

つきにすんでるおとこ
さっさとつきからおりてきて
ノリッジへのみちをきく
みなみからいって
くちにやけど
つめたいおかゆをスプーンでたべて

そこで谷川氏の詩を探しましたら「愛 Paul Kleeに」というタイトルがありました。

「愛」 Paul Kleeに

いつまでも
そんなにいつまでも
むすばれているのだどこまでも
そんなにどこまでもむすばれているのだ
弱いもののために
愛し合いながらもたちきられているもの
ひとりで生きているもののために
いつまでも
そんなにいつまでも終わらない歌が要るのだ
天と地をあらそわせぬために
たちきられたものをもとのつながりに戻すため
ひとりの心をひとびとの心に
塹壕(ざんごう)を古い村々に
空を無知な鳥たちに
お伽話を小さな子らに
蜜を勤勉な蜂たちに
世界を名づけられぬものにかえすため
どこまでも
そんなにどこまでもむすばれている
まるで自ら終ろうとしているように
まるで自ら全いものになろうとするように
神の設計図のようにどこまでも
そんなにいつまでも完成しようとしている
すべてをむすぶために
たちきられているものはひとつもないように
すべてがひとつの名のもとに生き続けられるように
樹がきこりと
少女が血と
窓が窓と
歌がもうひとつの歌と
あらそうことのないように
生きるのに不要なもののひとつもないように
そんなに豊かに
そんなにいつまでもひろがってゆくイマージュがある
世界に自らを真似させようと
やさしい目差でさし招くイマージュがある

クレーの絵もまさにそうですが、詩人の詩も、空にきらめく星を自分とむすび、星と星を結び付けてイマージュを作るようなものかもしれません。そこにあるのは想像の物語ですが、現実の目の前にある光景だとしてもそれが現実が想像なのか詩に起こしてみると、何の違いがあるのでしょうか。そこにあるのは詩としての命。絵画としての命がある。そういうことなのではないでしょうか。
もちろん「The Man In The Moon」という音楽も、そこにあるのは現実でもあり、現実でもなく、想像でもあり、想像でもない。また作曲家だけのものでも、演奏者のものでもなく、聴く側の人それぞれの心に広がる世界がどう受け止めるかということでしょう。

タイトル写真は2019年の日食の時、昼の月とのツーショットでした。

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