こも惜し扣鈕
私はだいたい夜の10時前には寝るので、こういった番組は録画する以外みることはないのですが、昨日はたまたま目がさえてみてしまいました。
この番組で紹介されたことの中で知っていたのは「森鴎外が森林太郎として軍医として力があったこと」と「日清・日露戦争があったこと」くらいで、後はほとんど知らないことでした。
とくに日露戦争は1904年から翌年に掛けてなので、今から120年前ということになります。若い人にとっては「120年も前」という見方もあるでしょうが、私は65歳なので生まれる50年ですから、ちょっとの出来事という見方にもなります。
番組は「脚気」という病について。森林太郎は伝染病、疫病と理解していたが、ここでもあるように「ビタミン不足」がもたらす病であり、そのことを内外で指摘する声があったにもかかわらず、森はそれを無視してしまいました。結局日露戦争では戦没8万8,429人のうち陸軍は84,435人ですが、海軍は 647人。圧倒的な差があるのは、203高地が激戦だったんだろうな~と思いましたが、なんと戦傷死の内、病死が2万7,192人。このほとんどが陸軍でその死因が「脚気」。海軍兵士の脚気による死亡はわずか3人だから、陸軍で脚気で死んだのは2万7千人ととんでもない数になります。
その差を海軍はビタミン不足を補うために「麦飯」主体にしたのに、陸軍の森は白米飯に拘泥したために、ビタミン不足→脚気→病死となったというあらすじでした。
驚きの数字ですが、恐らく歴史の教科書では総戦死者数は出ていてもその内訳「戦傷死何名、病死何名」なんて出ていた記憶はありません。まあ遺族としては戦争に送り出したのに脚気で死んだというのは切ないでしょうから、あえて秘す、という感じなのかも。
これはどうやら我が国の伝統のようで、太平洋戦争でもよく言われるように戦死者として扱われているうちの圧倒的な数が、餓死とか病死であったと言われます。実際にフィリピンで体験した大岡昇平の「俘虜記」、映画になった「野火」
他にも五味川/純平氏の「ガダルカナル」もありますし、ニューギニアは水木しげる氏の「総員玉砕せよ!」。餓死でまとめると藤原氏のこちら。
それぞれの死者は戦死者として靖国神社に祀られているのでしょうが、実際は愚策による無残な死を国によって与えられたことになりますから、故人の名誉のために遺族は黙っているしかない。それを国も良しとしている、それが戦争の実態なのだと思います。
番組では森の詩の一部(最後の太字にした部分だけ)が紹介されていました。
扣鈕(ぼたん) 森 鷗外
南山(なんざん)の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し
べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせまへに
えぽれつと かがやきし友
こがね髪(がみ) ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん
死にもやしけん
はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
ますらをの 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕
平易に口語に訳すと
「遼東半島、南山の戦いの日に金色のボタンを落としてしまった。
とても残念だ。
あのボタンは、20年前にベルリンのアーケードにある店で買ったもの。
あの時は肩章輝く友や、金髪の乙女と一緒だったが、すぎゆく年波で彼らも年を取ったのだろう
私も20年の歳月を重ね、喜び哀しみも知ったのだった。
その思い出のボタンだったのに、ここで片方落としてしまった。
ここでは軍人が百千人玉砕していく
残念なことだが、私にとってボタンも惜しい
いつも一緒だったボタンだった」
というものですが、ボタンと戦死者を一緒にできるのかが最初に頭をよぎり物凄い違和感がありました。
番組で紹介されたように、何万人もの脚気の死者を生んだ責任をどう考えるのか。
番組では森鴎外は高級テクノクラートと指摘されていましたが、なるほど自分と仕事と役割とを切り分ける人物だったのだと思います。だから作家と軍医という立場を矛盾なく(おそらく)こなすこともできたのでしょう。
今の役人は高級テクノクラートとは思えませんが、やっていることは軍医森林太郎と全く変わりません。もちろん、ここ数年の新型コロナへの対処は「新型インフルエンザ等対策推進会議」の議長として尾身茂氏が露出していましたが、果たして彼の初動の対応、波が繰り返される中での対応はどうだったのか?なんだか脚気の森林太郎と重なって仕方ありませんでした。
タイトル写真は、昨日見た平和公園の千羽鶴の主人公を取り上げたミュージカル「PEACE ON YOUR WINGS 平和は翼に乗って~佐々木貞子の物語~」。とても良かったです。
印象的だったのは、このミュージカルではサダコの病室(日赤病院)のシーンが何度もあり、サダコだけでなく沢山のサダコ(原爆体験者)の子どもが沢山いたこと、そして子どもだけでなく入院した多くの被爆者もまた亡くなったことに気づきました。
彼らは戦士でも軍事に携わったのでもありません。
トルーマン大統領、エノラゲイの乗組員にとっては、森鴎外流に言えば、沢山のサダコはボタンより軽いものだったのでしょう。
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