見出し画像

商売に向く土地

このTweetを見て、かつて聞いた話を思い出しました。

真偽のほどは定かではありませんが、納得した話です。

それはグレープフルーツ の輸入自由化が始まった翌年の1972年、みかんの豊作も重なって価格が大暴落しました。当時「みかん危機」と言われ、平地の少ない広島の島しょ部では、農家の多くがミカン農家だったので大打撃でした。75年以降はみかんの生産調整事業(廃園、転換)に政府が旗を振り、みかん農家の転業、転作、廃業が一気に進みました。今、広島はレモンの一大生産地ですが、この頃の転作が契機でもありました。

この廃園、転作に対して政府から補助金が出たのですが、その中で柑橘類の栽培の先行きから農家をやめる決断(廃業)をする農家も少なくはありませんでした。そこでみかん農家を廃業する農家が集まり、先行きを話し合ったのですが、その時の農協の組合長が「先行きは厳しいので、農業はやめて、貰った金で違う仕事を始めろ。島におってもしょうがないので、都会(広島)に行け。」
農民は「商売ゆうても何すりゃええんじゃ」と問うと組合長は
「ワシらは島のものじゃから、水に近い仕事が一番ええんじゃ。もちろん『水』じゃから水商売、そして川に近い所でやる商売がええ。旦那が包丁持てて、女房が目先が効いて接客できる奴は水商売。出来ん奴は座っとりゃええ仕事、連れ込み旅館、ラブホテルを川筋でやるんじゃ。」

と組合長が言ったというのですな。
これはかつて私の会社で働いていた農協担当の営業役員が、その組合長から聞いた、と教えてもらった話です、本当かどうかわかりませんが。

私はその土地に向いた商売とか土地に向かない商売があると信じています。これは以前書いたことがあるので重複しますが、当社は西国街道と石見街道そして川筋の結合点にあり、明治期までは船で運ばれた荷物をはしけで陸揚げし、街道からあちらこちらにという、今でいうロジスティクスのハブ地点でした。
商売が動くところだから、江戸期は両替屋、明治からは銀行が並び、問屋街でした。商売人も集まるから、料理屋も多く、花街もあり、いわゆる遊郭、赤線もあった場所です。今は時代の流れと共に、原爆によりその歴史は埋没し、どうやら細々とでも商売をする会社は当社も含めてどんどん減り、マンション街になりつつあります。

しかしこの土地の歴史から二つ大事なことがあります。
マンションとして引っ越してくる人には、そのマンションの下には原爆で亡くなった人がいたこと、そして身元不明で原爆供養塔に入っている人もいただろうということ。その無念の原爆遭難者の霊の上に住んでいるということは、その事も含めて原爆記念日に向き合う覚悟持ってほしいということです。

もう一つは現平和公園も含めて繁華街だったということ、商売に向く地域だったということ、中でも料理屋さんには最適だったということです。
ですから今でもこの界隈には小さいけれど、様々な料理屋さんやレストラン等があります。昼間人口、夜間人口に比べて飲食店の比率は高いです。料理という商売に向いた土地柄なのです。さらに言うと、ここで成功しない料理屋はダメ、仮に流川とか市内の繁華街に出ても絶対に成功しません。逆にここで成功すると他のどんな繁華街でもうまくいきます。そういう土地柄なんです。

さて、話は戻りますが、先ほどの組合長の言った言葉は正解だったのではないでしょうか、当時すでに広島で水商売やラブホテルをやって成功している元島民がいましたから、その情報もあったと思います。
私も「あの鮨屋は元○○島の人」「あの飲み屋さんは××島」「あのホテルは△△島の人」と教えられることは少なくありませんでした。

土地に向いた商売があること、そしてその背後には様々な歴史の積み重ねがあることを、私は固く信じています。ちなみに私の会社のある場所から西側が先ほどのTweetにある天満川、そして東側が本川。Tweetにある元安川のラブホテル街はもうすこし海に下った鷹野橋界隈。ということで本川橋から中国新聞本社ビルの間は今はマンションがずらっと建っていますが、少し前まではやはりラブホテルでした。つまり戦前の問屋街→原爆で廃墟→ラブホテル街→マンションと変貌しているわけですね。これも調べると町の歴史が表に出て来るので面白いが、今のマンション住人は財産権の侵害と拒否るだろうな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?