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忘れられない光の球

1週間前になりますがローマ法王来広の4周年の日ということで、24日に平和公園の親水テラスで祈りの場がありました。

以前からお付き合いのある神父さんが旗振り役で、彼からキャンドル提供の依頼を毎年頂くのですが、今年は広島学院さんに白地を10個、修学旅行等で来られた学校のキャンドルの残りがあれば(メッセージ付き)それも、ということで学校には勤労感謝の日に届け、メッセージ付きも25個ほどお渡ししました。

当日も日が暮れると随分寒くなりましたが、5時半過ぎに伺い店頭に立ち会うことが出来ました。

丁度タイトル写真の位置からそのセレモニー(祈りと歌)を見ていましたら、空の上からではなく、ドームとおりづるタワーの間の右上の低い空の位置から大きな光の玉が北方面に飛んでいくのが目に入り、あっ!と声が出てしまいました。

皆さんは祈りで深く首を垂れておられてみてなかった様子で、私だけ何か落ちたのだろうかと、しばらくその方角をキョロキョロ見ていたのですが、音も聞こえず、何かの見間違いだったのか?とも思いつつ、そんな幻覚には思えませんでした。
あれはなんだったのか、1週間たっても瞼の裏に焼き付いています。

私はUFOは見たことがありませんし、このような光の球も初めての体験。霊界というのはあるような気がしますが、行った記憶もないし、見たことないのでその存在の有無は断言もしかねます。

ただ思っているのは、人間は見たいものを見て、見たくないものは目の前にあっても見ない、ということです。いわゆる不都合なものに対して目では捉えていても、それが脳に伝わる前に消去されるのではないかと思います。

これは例えば雑踏の中、自分を呼ぶ声だけ聞こえて、それ以外の音が聞こえないのと同じ。騒音の中、自分が聞きたい声、言葉は聞こえるし、その他の音は全く記憶にも残らないという経験は誰しもあると思います。それと同様なことが視覚にも起きているのだと思います。

でも本来人間の機能として、見ていても見えないという能力(?)があったとして、全てが見えるというのは幸せなことなのでしょうか。
以前カズオ・イシグロの小説に「忘れられた巨人」というのを読んで感心したのは、「忘れるというのはとても大事なこと」だということでした。

人間とコンピュータの違いの一つに、人間は忘れること(思い出しにくくなること)が出来るが、コンピュータはデータ消去しない限り、入った情報は消えないと聞いたことがあります。
悲しい記憶、辛い記憶は忘れたいし、幸せな記憶も仮に今がそれほど幸せでなかったら記憶との落差で少々残念な気持ち(あの時はよかったな)になるのかもしれません。
とすればすべての記憶は忘れていく、消えていくというのは人間にとって生きるためにはとても大事な能力なんじゃないでしょうか。おやっ?イシグロ氏の読後感は消えずに残ってますね。

記憶同様に、全てのものが見ないようにしたり、聞こえないようにするのも、天が与えてくれた大事な能力ではないのでしょうか。

とするとあの光の球が見えたことは何を意味しているのか、悩むんです。


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