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プレイバック×5

先日図書館で新しく出たチャンドラーの「プレイバック」(田口俊樹訳)を借りました。

いつもながらのチャンドラー節を堪能しましたが、このプレイバックは過去何度も読んでいるだけに内容とともに、最後にあった堂場瞬一氏の解説になるほどと思いました。
それは今回の田口訳と、名調子と言われる清水訳の違いについて触れた箇所でした。

堂場氏は例としてディオールの香水の例をあげます。

「とはいえ、チャンドラーの代名詞とも言える抒情的な名台詞は本書でも健在だ。特に『しっかりしていなかったら、生きていられない〜』(清水俊二訳)という、ハードボイルドの象徴のような名文は輝いている。我が海外ミステリの師・田口俊さんが令和の今、ここをどう訳したかは、ぜひ本文を読んでいただきたい。
全体的に、ぐっと現代的に、読みやすくなっている。
私の手元にある清水俊二さん訳の文庫は1977年発行だが、訳者による後書き『レイモンド・チャンドラーのこと』によると、ポケミスでの初版は1959年の刊行である。
実に65年前だ。昭和34年と考えると、あまりにも昔の訳、と感じざるを得ない。
話し言葉は、ボキャブラリーやイントネーションも含めてどんどん変わっていくのに対して、小説の言葉の変化はそこまで速くないものの、65年前の訳となると、さすがに古さが滲み出てしまう。
特に会話にそれが顕著で、『クリスチアン・ディオールですわ』と言われると、読むスピードが落ちてしまう。いや、別にディオールが嫌なわけではないのだが、今、語尾を『ですわ』で締める女性はいないだろう。
もちろん、『当時の翻訳はこんな感じだった』という記録として、貴重だとは思う。しかし私たち一般読者は、言語の変化を研究しているわけではない。自分たちが普段話し、書いている言葉に近い訳の方が、安心してスムーズに読めるのは間違いない。
というわけで、未来の読者が名作をハードル低く読めるように、数十年に一度は新訳を出してアップデートさせるべきだというのが、本書を読んでの私の結論だ。『プレイバック』に関しては村上春樹さんによる新訳(未読です)などが出ているが、令和の今、田口さん訳で改めて『プレイバック』を読める自分を幸せだと思う。」

なるほど確かに今はこんな言い回ししませんから、逆に引っかかる所かもしれません。そこでタイトル写真にあるように読み比べしてみました。そこは

清水訳は「『クリスチアン・ディオールですわ』と、彼女は私の心のなかを読みながらいった。」

村上春樹訳では「『クリスチャン・ディオール』と彼女は言った。私の心を読むのはさぞや簡単だったに違いない。」

田口訳では「『クリスチャン・ディオールよ』と彼女は見え透いた私の心を読んで言った。」

鈴木訳(?)「面白いですわ。と私は3人の訳者の表現の違いを感じながら思った。」もちろんディオールの所だけでなく、プレイバックの冒頭一行目から既に違います。

清水訳
「電話の声はひどく高びしゃだつたが、なにをいつているのか、よくわからなかつた」

村上訳
「電話の声はいかにも鋭く、横柄だった。しかし何を言っているのかよく聞き取れなかった」

田口訳
「電話の声は甲高く、有無を言わせぬ声音だった。ただ、何を言っているのか、よく聞き取れなかった」

最初から違う。清水訳は「つ」が「っ」でなく大文字なのが時代です(文庫版は「っ」になってます)。

確かに今風の言い回しなのですが、村上、田口訳は1950年代の空気感を表現しても、どこか現在から過去を覗き込むような感じは否めない。清水訳はやはり同時代だからそこはしっくり来ているのではないでしょうか。

ところで今、手に入る(含む図書館)チャンドラーの「プレイバック」は
① 清水俊二訳 ハヤカワポケットミステリ 1965年
② 清水俊二訳 ハヤカワミステリ文庫 1977年 8月
③ 村上春樹訳 早川書房単行本 2016年12月
➃ 村上春樹訳 ハヤカワミステリ文庫 2018年 9月
⑤ 田口俊樹訳 創元推理文庫 2024年 4月

そしてもう一つ
⑥ 市川亮平訳 小鳥遊書房(タカナシ書房)

があるようです。今回⑥は後日のこととして、①~⑤で比較してみようと思いました。プレイバックパート2ならぬ、プレイバック×5ということです。

なんといってもこのプレイバックは

"If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive."

「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」
という清水俊二氏の訳文で有名ですが、これをまずは比較しましょう。

① 「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」

② は①に同じ。

③ 「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」

④ も③に同じ。

⑤ 「タフじゃなければここまで生きては来られなかった。そもそもやさしくなれないようじゃ、私など息をしている値打ちもないよ」

これは好みでしょうが、やはり清水氏の訳があって名文句の地位を得たと言えるでしょう。村上、田口訳は亜流とは言わないが、清水訳の土台の上にあるのかなと。
でもなんと言っても生島治郎氏の
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
が清水訳のベースにあるようで、これが一番ハードボイルドかな。

またチャンドラーの長編小説のタイトルは邦題がついているのですが、このプレイバックだけは無いんですね。

「大いなる眠り」 The Big Sleep
「さらば愛しき人よ」 Farewell, My Lovely
「高い窓」 The High Window
「湖中の女」 The Lady In The Lake
「かわいい女」 The Little Sister
「長いお別れ」 The Long Goodbye

とまあ邦題は原題をそのまま訳しただけですが、「プレイバック」だけ Playback とそのまま。プレイバックは記憶や音楽の再生という意味なので、この小説のプレイバックは秘めた過去を隠す女性、登場人物が入り乱れるという話でもあるので、前半は謎だらけ。唯一わかりやすいのはマーロウに仕事を依頼した弁護士位で、後は弁護士の秘書からして謎でした。ただ隠しておきたいであろう自分の過去を半分くらいの人は自ら語るというのもまた面白い。

清水俊二氏はあとがきで「いろいろの謎を投げかけている不思議な作品」と表現し、さらにこう書いています。

「なっとくがゆかないといえば、『プレイバック』という題名の意味もよくわからない。 "プレイバック"ということばは、ふつう、一ど録音したものを再生するという意味で、映画で歌をうたら場面を撮影するときなどにこの方法がつかわれる。はじめに歌を録音しておいて、その録音にあわせながら演技をするのである。しかし、それだけのことでは、なぜこの作品を『プレイバック』と名づけたのかということの説明にはならない。むりにこじつければ、チャンドラーにとっては『長いお別れ』が題名のとおりの最後の作品で、『プレイバック』はただくりかえいにすきないのだと考えられないこともないが、どうにもこじつけにすぎるようである。あるいは、リプレイパック"ということばにちがう意味があるのかもしれない。ご存じの方があったら、お教えをねがいたい。」

村上春樹氏も

「ただ僕は昔から疑問に思っていたのだが、なぜこの小説のタイトルが『プレイバック』なのだろう。英語の playback は普通に考えれば、録音や画像を「再生」して聞き返したり見返したりすることだ。しかしこの小説のいったいどこにplayback 的な要素があるのか、今ひとつぴんとこなかった。勘ぐれば、マーロウが「またまた同じようなことを繰り返してやらなくちゃならないのか」と嘆きつつ探偵稼業に励む、ということになるのかもしれないが、まさかそんな自虐的なタイトルをチャンドラーがわざわざつけるようなこともあるまい。おそらくそれは、ベティー・メイフィールドが「過去に経験したのと同じような犯罪に、またもや巻き込まれてしまう」ことを意味しているのだろう。「再演」という感じで。でももしそうだとしたら、長編小説のタイトルとしてはいささか求心力に失けている、ということになりはしまいか?オリジナル・シナリオのタイトルをそのまま小説に流用しているところを見ると、作者自身はそれなりにこのタイトルに納得していたのだろうが、僕としてはもっと気の利いた、話の筋にぴったりしたタイトルがいくらでもつけられたはずなのにと思わないわけにはいかない。」

やはりね。さらに深掘りして楽しもうと思います。

今回最後のご紹介するのは各巻の裏表紙にある紹介文。

① 清水ポケミス版

「ある弁護士から女の尾行を依頼された私立探偵フイリップ・マーロウは、ロサンゼルス駅に着いた特急列車スーパー・チーフの乗客のなかにその女を見つけだした。まだ若い、赤毛の、とりすました女だった。…だが、駅の構内のコーヒー・ショップで、服装の派手な若い男といっしょになると、女の態度は急に変った。明らかに、男は女を脅迫しているらしい。一そして、男は、どこへ行っても、影のように女につきまとってはなれなかった。
マーロウもその女を執拗に尾行して、サン・ディエゴの北の海岸エスメラルダまで来た。そこでは…一つの死がマーロウを待っていた。
ハメットとともに正統ハードボイルド探偵小説の伝統を築いた、いまは亡きレイモンド・チャンドラーが、名作『長いお別れ』ののち。四年間の沈黙を破って発表した問題の遺作!」

② 清水文庫版

「ある弁護士から女の尾行を依頼されたフイリップ・マーロウは、ロサンゼルス駅に着いた特急列車の中にその女の姿を見つけた。だが、駅構内のコーヒー・ショップで派手な服装の男と言葉を交すや、女の態度は一変した。明らかに男は女を脅迫しているらしい。男は、どこへ行ってもその女に影のようについて回った。
そして、二人を追いエスメラルダまで来たマーロウを待ちうける一つの死!
ハメットと共に正統ハードボイルド・ミステリの伝統を築いたチャンドラーが、名作『長いお別れ』ののち、4年間の沈黙を破って発表した問題の遺作!」

③ 村上単行本版

「「聞こえているのかね?私はこう言ったんだ。こちらはクライド・アムニー、弁護士だと」「クライド・アムニー、弁護士。どちらにもいくつか心覚えがあったもので」
午前六時半。一本の電話が私立探偵フィリップ・マーロウを眠りから覚まさせる。
それは、列車で到着するはずの若い女を尾行せよとの依頼だった。
依頼主の高圧的な態度に苛立ちながらも、マーロウは駅まで出向く。
女はすぐに姿を現すが、彼女には不審な男がぴったりとまとわりつき一
<私立探偵フィリップ・マーロウ>シリーズ、長第七作。新訳版。」

④ 村上訳文庫版

「「開こえているのかね?私はこう言ったんだ。こちらはクライド・アムニー、弁護士だと」一午前六時半。一本の電話が私立探偵フィリップ・マーロウを眠りから覚まさせる。列車で到着するはずの若い女を尾行せよとの依頼だった。見知らぬ弁護士の高圧的な口調に苛立ちながらも、マーロウは駅まで出向く。しかし、女には不審な男がぴったりとまとわりつき…〈私立探偵フィリップ・マーロウ〉シリーズ第七作。新訳版」

⑤ 田口訳

「私立探偵マーロウは、ある弁護士からひとりの女を尾行し宿泊先を報告せよと依頼される。目的は知らされぬままに女を尾けるが、彼女は男につきまとわれ、脅されているらしい。ホテルに着いても、状況は変わらない。マーロウは依頼主の思惑とは無関係に、女の秘密をさぐり始める。「長い別れ』に続く、死の前年刊行の名作。伝説的名台詞が胸を打つ新訳決定版!」

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