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日本語による世界平和弁論大会

毎年11月に「ヒロシマ・ピース・センター」が主催して、広島に来ている学生を対象とした「世界平和弁論大会」というものがあります。
私はこの主催の理事を務めていて、弁論大会の選考委員でもあります。
もう10年以上続けていますが、この二年間はコロナ禍で開催を見送り、今年は3年ぶりの開催。今年の「第31回日本語による世界平和弁論大会」は13日の日曜日に開催です。

この写真は2015年の大会のものです。(タイトルバックは今年)

今回も事前に審査用に原稿が送られてきたので目を通しました。実際は「弁論」ですから当日のスピーチ、表現が大きく評価にかかわりますが、話す内容ももちろん大事です。

毎年見ていくと取り上げる題材に共通するポイントあります。

1つは高校生が中心(大学生・中学生も)なのでその個人的な体験、家族の体験、それぞれの国・地域の体験という発表者固有の経験に基づく話。

2つ目はやはり広島で開催され、また「平和」とタイトルにありますから、「広島」「平和」「核」という問題に取り組む話。特に広島に来て何を感じたか、何を知ったかというのは重要なポイントです。

3つ目ですが「平和」は必ずしも「戦争」の対義語ではありません。貧困、病気、環境もありますし、今でいえばSDGsというキーワードもあります。そういう視点からのスピーチもあります。

最後にその年のトピック。やはり今年はウクライナへの侵略戦争でしたね。

もちろんこれら4つの題材をそれぞれ、あるいは組み合わせた上で、自分の考えを述べるわけですが、今年参加の12人(7か国)の原稿を読んでいて気になることがありました。

それは文中でウクライナに関して言及した人が7人、個人の体験が4人、環境(SDGs)が2人、そして広島は3人という状況。
もちろん複数のテーマについて取り上げた人もいますが、本当に驚いたのは広島について取り上げたのが3人、SDGsも2人しかいないということ。

SDGsも「グローバル経済」「ジェンダー」で、「地球温暖化・環境」についてはゼロ、さらに「新型コロナ」についてもゼロということでした。グローバル経済やジェンダーも深刻な問題ですが、環境やコロナについて言及のないのはどういうことなのだろうか?と頭を傾げましたが、それは高校生たちにとっては考えるべき身近な問題ではないのでしょうか。

その見地からすると確かにウクライナについては悲劇的であり、話題性、同時代のホットなテーマですから選びやすいのかもしれません。かたや「広島」については教科書や本、過去の映像で知る遠い話なのかもしれません。
しかし広島に留学してきた彼ら学生が「平和」について語るときそれでいいのでしょうか?

私は彼らがこのコンテストに出るのはとても素晴らしいことだと思っています。
母国語でない日本語でのスピーチ。中には日本に来て1ヵ月という人もいます。環境や異なる社会風習で戸惑うことも多い中、ホームステイ先の家族や、先生の指導でコンテストのステージで堂々と自分の気持ちを伝える、それもほとんどの人が原稿なしの暗誦は見事です。

ただ、それであっても「広島」「長崎」「核」について触れないのは「平和」とタイトルにあるだけに残念なのです。いやもしかしたら広島の過去について「無関心」の傾向が出ているのかもしれないとゾッとしました。

マザー・テレサが言ったといわれている有名な言葉に「愛の反対は憎しみではない 無関心だ」というのがあります。「平和の反対は憎しみではない 無関心だ」とも言い換えることが出来ると思います。被爆77年という年月を経ると「関心」が薄くなるのは仕方のないことかもしれませんが、それでも「無関心」であってはなりません。

ただ、彼らにとってはコンテストはゴールではありません、通過点だと思っています。本当のゴールは彼らが留学を終え、母国に帰った時に、家族、友人、学校から「広島ってどうだった?広島で学んだことは?」と問われたときに、このコンテスト以降も、広島で起きたことについて聞いて、見て、学んだことを母国で伝えることだと思いますし、それが広島での学んだことの意味の実践の第一歩だと思います。

以前から書いたこともありますが、広島に来ること、平和公園や資料館で学ぶことはとても大事だと思います。でもそれは入り口に過ぎません。本当に大事なのはそこからどういう行動をとるかです。広島で起きたことを伝えることもその一つですし、更に行動することもあるでしょう。

もう6年前になりますが、オバマ大統領が来広したのは重要なことだったと思います、原爆を投下した国の元首が来たわけですから。しかしその後具体的な行動はありませんでした。

来年G7サミットが広島で開催されます。各国元首が広島に「来ること」が大事だという人もいますが、それはオバマ氏の段階でもう終えたステージです。今は「来て、見て、何を語るか、何を行動するか」をする段階です。
もちろんホスト役の岸田首相も「来てもらうこと、見てもらうこと」のレベルで終わらせてはなりません。各国のリーダーがそれだけで終わせてしまうと、来ても「無関心」でいいということを許してしまうことになります。
首相自身が他国の元首に対し「何を約束するのか、どう行動するのか」を具体的に語らせ、合意することが要求されています。それがなければサミットを広島で開催する意味は全くありません。
もちろん自分自身も「平和の理想」を国民に語り、約束しなければ、このサミットを広島で開催する意味は全くないのです。

それは岸田氏はじめ各国元首だけではありません、今回のコンテスト参加の学生も全く同様だと思います。もう一度先ほどの言葉を繰り返します。
「愛の反対は憎しみではない 無関心だ」
それぞれが広島の経験を経て「どう行動するのか、どう発言するのか」。その実践こそ広島・長崎の被爆者に対して果たすべき役割だということを忘れてはなりません。

てなことを閉会挨拶でしましたが、言い過ぎでしょうか?

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