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南北朝正閏問題

この本はとても面白く興味深かったです。図書館で借りたのですが、そういえば南北朝正閏問題って習ったような気がすると、読み始めました。

読み進むとどっちの天皇が正統なのか?というのは南北朝だけでなく、その前にあったとあります。それは平家と源氏、安徳天皇と後鳥羽天皇。

仮に安徳天皇が「正位の君」とすると、安徳天皇在命中の後鳥羽天皇は「閏位の君」となります。ということは、源氏は「閏位の君の軍」ですから、「正位の君の軍」である平家に圧迫を加えて、ついには「正位の君」の安徳天皇を壇ノ浦に沈めたということになります。その後、「閏位の君の軍」が海をさらって3種の神器を手に入れ、後鳥羽天皇が「正位の君」に着くことになる。」

かりに3種の神器が皇位の正当性を持たせるものだとすると、力ずくで神器を奪い取ったらその人が皇位に就くこともありうることになるのでは?というもので、先日赤間神宮に行ったところだったので、この辺から面白くなりました。タイトル写真は安徳天皇の御陵です。

安徳天皇の在位は1178年12月22日- 1185年4月25日で、後鳥羽天皇は在位が1183年9月8日- 1198年2月18日ですから、まさしく1183年9月8日から1185年4月25日は並立していたことになります。なるほど、南北朝と同じ構図です。

さて、そもそも南北朝は教科書で習った程度に太平記の楠木正成あたりのことしか頭にありませんでした。
とりあえず中学の歴史教科書にはこうあります。

建武の新政
「後醍醐天皇は京都に戻ると、天皇親政を目標とし、公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた。幕府滅亡の翌年の1334年に、年号を建武と改めたので、これを建武の新政(建武の中興)という。
しかし、建武の新政は、武家社会の慣習を無視して領地争いに介入したり、貴族の慣例である世襲制を否定した人材登用を行ったりしたため、当初から政治への不満を多く生み出すことになった。
そのようなときに、足利尊氏が武家政治を再興しようと兵をあげ、建武の新政はわずか2年あまりで崩れてしまった。」

南北朝の争乱
「1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、京都に幕府を開き、鎌倉時代初期の北条泰時らの政治を手本とする、幕府政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに2つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。両者は別々の年号を使った。
吉野に置かれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国で争いをつづけた。この時代を南北朝時代という。」

実は著書の「正閏問題」というのは南北朝頃の話ではなく、政治・社会問題として大騒動になったのは明治44年のこと。その頃の出来事として教科書にあったのは

社会問題の発生
「片山潜・幸徳秋水・安倍磯雄たちは社会主義研究会を結成し、労働者の権利を擁護する社会主義運動を始めた。1910(明治43)年、幸徳秋水らは天皇暗殺をくわだてたとして検挙された(大逆事件)。この事件を機に、政府は社会主義への警戒を強めていった」

とありました。
正閏問題がどんな騒動なのか全くわかっていませんでしたが、この本を読むとこの「大逆事件」と深く関連があることがわかります。天皇に不敬を働くのはそもそもの教育が間違っているということ。そのためには忠臣としての楠木正成に学べ、という水戸学からの働きかけがあったこと。
またこのタイミングで高等・尋常小学校の歴史教科書の改訂の検討があり、その教師用の指導用テキストに

南北両朝の正閏につきて
「南北両朝の対立は、遠くは安徳・後鳥羽の両天皇、近くは後醍醐・光厳の両天皇の同時に皇位にましませくと同じく、我が歴史上の一時の変態にして固より當例を以て律すべきに非ず。旧説或は南朝の皇位を認めざるあり、或は之に反して北朝を以て閏位となすありと雖も、要するに鎌倉時代に於て持明院(御深草天皇の御子孫)大覚寺(亀山天皇の御子孫)の両皇統の交互に皇位を継承し給ひしもの偶々時を同じくして南北に対立し給ひし一時の現象にして、容易に其の間に正閏軽重を論ずべきに非ざるなり。」

とあったのが、南朝正統論者(正成応援団?)の逆鱗に触れたのが発端だそうです。
ちなみに聞きなれないこの「正閏問題」の「正」と「閏」ですが、「閏」を使うのは閏年(うるうどし)位で、普段使うことはありません。ググると閏年以外に「正しい系統とそうでない系統」とあります。南北朝の正閏はこのクチです。丸山眞男氏によると

「「正統」にはO正統とL正統の二つがあるという。
正統のOとはOrthodoxyであり、宗教等の教義における正統性を指す。その対立概念は「異端 (Heresy, Heterodoxy)」となる。いわゆる「正統と異端」である。かたや、L正統のLとはLegitimacyであり、政権等の統治における正統性を指す。
丸山によると、複雑なことに漢語としての「正統」には、O正統(道統)とL正統(治統)の二つがあった。さらに、後者のL正統(治統)にも、広狭の二義があった。広義の王朝継承関係の意味での「正統」の対立概念は「簒奪」となる。それにたいして、より狭く同系王朝のなかの複数的な王位継承候補者の意味での「正統(正系・正)」の対立概念は「傍系」または「閏位」などと呼ばれると丸山はいう。」

なるほど北朝系の明治天皇が「そうでない系統」になるのもまずいし、忠臣楠木正成方の南朝が「そうでない系統」になると、忠臣のイメージが崩壊するからまずい。そういうことだったのですね。

また牧野謙次郎氏の
「天子の一なるものが二つできた時に、正は是非なくてはならぬ者、閏は余儀なく出来たもので、後醍醐帝を正、北朝を閏というのである。中国の正閏論は中国のような易姓革命国ではどちらになっても差し支えないが、日本は万世一系であるからこそ、最も重んじ尊ぶべき皇統に二種あるのはゆるしがたい」
というのもなかなか面白いです。

そんな正閏論争ですが、南朝正統論者の他には、北朝正統論者、さらに南北朝対立(並立)論者がいたそうですが、それぞれの論理の根拠を簡単に抜き出すと

南朝正統論者の一番の根拠は3種の神器を以て即位したこと。また楠公が忠臣でこちらが官軍であったこと。足利尊氏軍は天皇に対する謀反として「賊軍」であったことが根拠の中心。

北朝正統論者の根拠は明治天皇が北朝の皇孫であること、また南北朝では実質的に北朝が政治を運用していた点を指摘します。

南北朝対立(並立)は実際、持明院と大覚寺統が交互に皇位に着いたのだからその一連の流れとして見るべきというものです。

まあ正直どっちもどっちで白黒つける必要あるのか?と思いますがそこで浮上するのが先ほどの大逆事件。
当時の内務大臣は
「予防策の一つとして教育(実業教育の普及、補習学校・夜学校の普及、校長・教員の人格・思想の養成、校長・教員の生徒に対する監督・教授の「精神」化)を重視。」
元老の山形有朋は
「小学校の教科書は特に健全な思想を養うことに留意して編成。特に『万世一系の皇位』を強調して教科書統制の強化を主張」
というように、子どものころから徹底して天皇に対する敬意を刷り込ませることを重視することから、南北朝対立、北朝正統は許さざるものという政治問題からの関与が始まり、それに政党対立やアカデミー対立、マスコミのあおりが加わったようです。

最終的には教科書における「正閏問題」は「本課の要旨」として

「本課においては建武の中興の業挫折し、姦猾なる尊氏が勢いに乗じ皇族を擁して其の私を成し、朝廷吉野に移るの已むを得ざるに至りし事情を知らしむると共に、北畠・新田・楠木・名和・菊池等諸氏が何れも勤王の赤誠を致し父子兄弟相継ぎて其の節を変ぜず一意王政の復興に努めし事蹟を説き、児童をしてこれら忠臣の人となりを敬慕せしめ忠君の精神を涵養せんことを要す」

となったそうです。

この騒動は1911年ですが、結局中途半端な政治判断、権力闘争で決着したようです。100年経ってこのような皇位に関する研究が進んだことで、正閏問題とは何だったのか?が少しわかるようになりましたが、この時期にこれが出版されたのは誠に意義があること。今もまた皇位継承に関して色々ありますが、正閏問題と同じように船頭が山ほどいること、決してアカデミックでない意見が大きな声であれば優位に立つこと。

「南北朝正閏問題」ならぬ「皇位継承(女系天皇)問題」も同じような多数の船頭と非アカデミズム、政治家の思惑と、問題をあおって売れればよいというマスコミの構造は同じです。

「安定的な皇位継承策を検討する政府の有識者会議」は、大橋真由美(上智大教授)、清家篤(日本私立学校振興・共済事業団理事長、冨田哲郎(JR東日本会長)、中江有里(女優・作家)、細谷雄一(慶大教授)、宮崎緑(千葉商科大教授)という顔ぶれでした。それを見ると、正閏問題から1ミリも進歩していない議論がそこにはあったのだろうと思う次第です。

最後に少し感心したのは山県有朋が「南北朝正閏問題は、枢密顧問官として、公然社会に向けて論議するは、然るべからず」として、皇室そのものの正当性については皇室のもので、政治の場で議論すべきものではない、といったそうですが、これは一つの卓見だと思いますが、令和となるとやっぱり思惑だらけの船頭がぞろぞろと登場のご様子です。

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