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ミニマルから立ち上がる世界

日曜日の夜これを見ていた。「月見座頭」が終わって「通圓」の舞、その後の野村万作の「釣狐」の途中に、熊本の地震速報が入り、なんとなくテレビを消したのだけど、最初に見た「月見座頭」というのは素晴らしかった。

何となく狂言はその名の通り、少々わちゃわちゃして万歳めいたところがあるもののだと思っていたのだが、いや失礼しました。これは深く考えさせられたが、この狂言の山本東次郎氏とアドを務めた山本則俊氏、素人目にも共に大したものだと思った次第(まあ人間国宝だから当然なのでしょうが)。

話としては「八月十五夜(といっても旧暦なので秋)の名月の夜、一人の座頭が月を見ることはできなくとも虫の音を楽しもうと言って、野辺に出かけます。すると月見に来た男と出会い、二人は歌を詠みあい、意気投合して酒宴となります。謡い舞って良い気分のまま別れますが、男は途中で立ち戻り、座頭に喧嘩をふっかけ引き倒してしまいます。座頭はさっきの人と違って情のない人もいるものだと言って、独り野辺で泣くのでした。」とググって見つけたサイトには書いてありました。私が感じたことを数点。

1つ目は座頭という視覚障碍者にとっては月を愛でるのではなく、虫の音を愛でるというあり方があるということ。コオロギやキリギリス、松虫やクツワムシ、鈴虫の音を耳を近づけて楽しむ姿、とても良かった。本当にそれぞれの虫の音が聞こえるようだった。私のような晴眼者は実のところ、見ているようで見ておらず、聞いているようで聞いてもいない。こうありたいものだと思いました。

2つ目は初対面の男同士が、酒を酌み交わし、古歌を歌い、また舞う姿。今のオジサンたちにはできない姿だ。互いに謡、舞が出来(座頭も弱法師を舞う)、またその評価が出来てやんややんやと愉しみ、また酒を注ぎ合う。こんな文化を学んだ大人こそ本当の大人と言えるのだろう。居酒屋で世間の愚痴を言い合うのは下の下であるわい(反省)。

3つ目は目が見える男が途中で突然「いじめちゃろ」という悪意を出して、座頭に喧嘩を売る。先ほど迄高尚な文化人同士だったのに、突如人間の腹の底にある真っ黒いものを出してくる。これも狂言の描く人間の一つの姿なのか。

最後に座頭は帰ろうと橋掛かりに差し掛かるが、「くっさめ」とくしゃみをする。解説で山本東次郎氏は「その瞬間に虫の音、名月という美の世界からハッと我に帰り、俗世間に戻るのを表現している」と言われ、感心した。

私は日本のこういう古典芸能では、能と狂言が好きな方で、歌舞伎はほとんど見ない。正直「大げさ」なのが苦手なのだ。故に宝塚とか劇団四季なんかもあまり魅力を感じないんだけど、これもまた食わず嫌いなのかもしれないよね。
丁度安倍公房の砂の女を「100分で名著」でやっているので、安倍公房を本棚から引っ張り出して読んでいるが、あの頃の若者は三島由紀夫、大江健三郎、安倍公房のいずれかに影響される人が多かった。当時は彼らに代表される純文学という箱入りの新刊本を求める人が普通だったようにも思う。最近は箱入りの本、見かけなくなったなア~。
で、私は友人の影響もあったのか、安倍公房派だった。45年くらい前に大学生となり上京してからは、渋谷で「安倍公房スタジオ」という演劇を何回も見に行った。この演劇は誠にシンプルな舞台だったが、そこから物凄い世界が(想像の上で)立ち上がってくるのを目の当たりにした。あれから大げさな作りこみは苦手になったのかもしれないけど、音楽も当時はミニマル・ミュージックではないが、そういう系統が好きだったように思うし、今でもそう。クイーンが苦手なのは大げさだからであります。
とすると、能狂言の方がお好みというのはこのあたりの青年期のビビッドな感覚の根っ子にあるのかもしれないな。だから落語も噺家の巧みな語りでいつの間にかその世界が頭の中でイメージとして構築される。映画のように既に監督により作り上げられた世界観より、自分で想像ができるシンプルさ、余白のあるミニマルが好きだ。

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