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一行の詩のために

いつも朝はコーヒー豆挽いた後は、飲みながらBSのクラシック倶楽部を見て(流す)、朝飯までのゆっくりタイムです。
先日見たのは「つのだたかし」さんのリュート。これは以前見た再放送だなと思いつつ、夏の朝には丁度良かった。
「つのだたかし」氏は漫画家の「つのだじろう」の弟、ドラマーの「つのだ☆ひろ」氏の兄になる。それぞれ違う世界で面白いね。

さてその「つのだたかし」氏の音楽も良いのだが、今回演奏・撮影された場所が雰囲気が良いのだな。それは千葉の長南町にある美術館「as it is」という場所と背後に展示されている望月通陽氏の版画である。

これがまたピッタリだが「マルテの手記」は私の好きなベン・シャーンにもある。

そこで図書館で望月氏の画集、随想を借りてみた。
タイトル写真にある大きな方は「円周の羊 望月通陽作品集」、小さな方は随筆集「方舟に積むものは」です。
「円周の羊」のあとがきの池内紀氏が望月氏とつのだ氏のことにも触れている。深い付き合いなのだなぁ。

さて、マルテの手記からシャーン、望月、角田氏が「ポッカリ」とインスパイアされた詩の訳も紹介しておきましょう。

「一行の詩のためには」

一行詩のためには
あまたの都市、
あまたの人々、
あまたの書物を見なければならぬ。
またあまたの禽獣を知らねばならぬ。
空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、
朝開く小さな草花のうなだれたはじらいを知らねばならぬ

そして経験だけではなく、それを保持しなければならない
忘れた状態で。

幼い日の病気、そして静かな寂とした部屋の日々、
海辺の朝、そして、海、あの海この海、
また、天空高く馳せすぎ星とともに流れ去った旅の夜々を思い出さなくてはならない。

夜ごとに相のちがう愛欲の夜、
陣痛の女の叫び、
肉体がふたたび閉じ合わさるのを待ちながら深い眠りをつづけている
ほっそりとした白衣の産婦、
これらについても思い出をもたなければならない。
また、臨終の者の枕辺にも坐したことがなくてはならない。
窓を開け放ち、つき出すような嗚咽の聞こえる部屋で、
死者のそばに坐した経験がなくてはならない。

---しかも、こうした追憶を持つだけなら一向何の足しにもならぬのだ。
追憶が多くなれば次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。
そして再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐が要るのだ。
想い出だけなら何の足しにもなりはしない。
追憶が僕らの血となり、眼となり、表情となり、
名前も分からぬものとなり、
もはや僕ら自身と区別することができなくなって、
初めてふとした偶然に一編の詩の最初の言葉は、
それらの思い出の真ん中に想い出のかげからぽっかり生まれてくるのだ。

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