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李グウ公

サミットの間、身動きもとれず騒動が嫌なので広島から離れていました。

1日目(金曜日)の宿泊先はホステルでしたのでテレビもなく、サミットでどうなっているのかの情報も耳に入りませんでした。
翌日(土曜日)はスマホのデータ通信もカットし、さらに2日目の夜は夜行バスで移動だったので、こちらもわからず。
結局3日目(日曜日)の朝、銭湯に入った時についていたテレビで初めてサミットはどうなっているのか、という情報がわかり、ゼレンスキー大統領も来たということを初めて知りました。

銭湯の脱衣場で熱めの身体を扇風機で涼みながらニュースを見ていましたが、丁度韓国の大統領夫妻と岸田夫妻が韓国人原爆犠牲者慰霊碑、当時の半島出身者の被爆慰霊碑に献花している所でした。


サミットはどうも浮ついた政治ショーになったような感じがあります。
特にウクライナの大統領に最後掻き回されたように思いますし、果たして広島で開催した意義があったかどうかは、これから冷静になって考えるべきでしょう。

少なくとも私は核については×(落第点)、ウクライナについても×(落第点)、国際経済不安も×(落第点)で、これだけの市民生活に混乱を招いたのと比べるとどうだろうか…、中身が付いてこなければイベントだったのではと思います。

まあ、薄い期待かもしれませんが、岸田氏以外でも平和資料館を訪問した各国元首が、自国に戻ってどういう発言、行動するかを見守りたいと思います。


一方、十分評価してよいこともありました。それは、前述の半島被爆者に対する両国のトップの慰霊だったと思います。

もちろん安部氏だったら絶対にしなかったでしょうし、平和式典で原稿読み飛ばしの菅氏も政権右派に配慮して絶対になかった。
岸田くんだから今回できたと言ってよいかもしれません。
しかし歴史修正主義者がたむろする自党ですから、これはきっかけに過ぎず、決して甘く考えない方が良いでしょう。謝罪とこれからの友好は十分明るいとは言えません、これからの実践に期待したいと思います。

ちなみに銭湯で見ていた国営放送では、この韓国人原爆犠牲者慰霊碑について「平和公園敷地外にあったものが移設された」と紹介していましたが、これじゃあ不十分なものだったと思います。
多分記者の方もググった資料だけで十分な調査なんかしなかったのでしょうね。もしかしたら原稿は生成AIが作ったものかも…

韓国人原爆犠牲者慰霊碑についてですが、私が生まれ、今も会社のある近所のところの話なので、これに関する問題は色々と耳に入ってきていました。私の記憶する限りの認識を書いておきます。

そもそも平和公園は「広島平和記念都市建設法」に基づいており、様々な建造物や構成物については制限がされていました。
堀川惠子氏の名著「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」には無縁の戦没被爆者の遺骨の供養塔を平和公園内に作るのに、「お墓ではない、供養塔」だとしてこの建設法をクリアしようとした苦労が詳しく書かれています。


当時平和公園内の慰霊碑の建立については希望が多くの所からあり、既にあったものを除くと平和公園を囲む川の反対岸でしか設置は許されていませんでした。
ですから今でも丁度かき舟「かなわ」の所には「『平和の祈り』句碑」があります。これは当時の中曾根康弘首相(現役)のものですが、それですら公園の敷地外にあります。
ということで、平和公園の敷地内に慰霊碑を建てることは、法律から制限されていた、という事実を一つ紹介すべきことだったと思います。

もう一つは、この韓国人原爆犠牲者慰霊碑は「在日韓国青年商工人連合会及び有志一同」によって建立されたものということです。これはいわゆる韓国系の「民団」と呼ばれる団体です。
その後、「敷地外の設置は民族差別だ」等々の問題となった際に、被爆時にいた半島出身者に対する慰霊碑を作るのは良いが、韓国と北朝鮮双方のものを個別に建てるのは難しい。民団と総連の慰霊碑でないと収拾がつかない。というような問題がありました。
その頃は今のように日本は北朝鮮をそこまで危険国家として見ていたわけではありませんから、どうか落としどころをつけて欲しいというのが一つの考え方だったでしょうし、本年としては面倒な問題は相手に丸投げしたという役人根性も垣間見えます。

それが平和公園敷地内に移すことになったのは、間違いなく政治的な駆け引きだったと思います。
つまりこれはいまだに「半島出身者の被爆慰霊碑」ではなく、あくまで「韓国系の被爆慰霊碑」であり「北朝鮮系の被爆慰霊碑」ではないのだと理解しています。

ちなみにそもそもこの碑が本川橋の西詰にあったのは(ググるとでてきますが)、そこが朝鮮王公族である李グウ(金偏に禺)公(大日本帝国陸軍中佐)の遺体発見現場だったからということです。
今回のタイトル写真はググって出した李グウ公の写真を勝手に紹介しましたが、高貴な甘顔は今の韓流アイドルの先駆者ですね。

この李グウ公がお住まいだったのは、今の西区の高須(古田町高須)。ここには当時私の祖父母始め家族が職住一致でおりました。

父からは毎朝殿下が馬でご出勤されるときはそのお姿を見てはいけない、お住いの官舎(第二総軍官舎前田別荘)の方角も見てはいけない、という通達があったと聞いていました。

ですからあの朝、当時私の曽祖父たちが住んでいた高須にある前田別荘を出て、今会社のある堺町の西国街道を通って、本川橋のたもとで遭難されたというのについては、大変思いがあります。

原爆投下時には、半島は北も南もありませんでした。日韓併合の最中で日本の統治下。その半島出身者には北も南も当然ありません。国自体が李氏朝鮮~大韓帝国~韓国併合と分断されていたわけではありませんからね。

だとしたら今回両国のトップが慰霊をしたのを契機として「朝鮮半島出身者被爆慰霊碑」としてまとめていくのを、当時のまさに当事者である日本として働きかけていく道はないのでしょうかね。


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