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そうしているのは誰?

さて前回先にピースキャンドルのことをアップしてしまいましたが、その前に「夢灯りキャンドル」からの話を書かなきゃいけませんでしたね。ちょっと前後しますが、忘れないように…

「おりづる大会」のあった年、会社が(かつては自宅も)ある場所は堺町なので、平和公園にも近く、8月6日の原爆記念日には慰霊碑にもよく足を運んでいました。その年は日中に行けなかったので、夜8時前に平和公園に行き、慰霊碑で手を合わせて、灯篭流しをやっている元安橋に向かいました。

かつては灯篭流しは市内の川(西から太田川放水路、天満川、本川、元安川、京橋川、猿猴川)とそれぞれの場所で流していましたが、準備や後片付けが大変でもあり、いつの間にかまとめられて原爆ドームの近くの元安川だけになりました。

ちなみにあの灯篭は、元安橋の近くの親水テラスから8月6日の18時半頃から流されますが、その場所は瀬戸内海からの流れもあがってくる所なので、日にちによっては灯篭は川を上ったり、上流からの流れで下ったり、場合によっては流れが止まり滞留したりします。ですから後片付けの関係もあるのでしょう、遡らないよう相生橋の辺でネットをはられていたり、下りは平和大通り(100m道路)の下でこれまたネット回収されていたりしていました。今も同じ場所かな?

ところが、その夜見に行ったら、流されている灯篭は驚くほど少なかったのです。もちろんそこにこられていた人も少なかった。

それは灯篭流しがやはり慰霊の意味合いが濃いからなのでしょう。当時、被爆50年を超えた頃でしたから、既にご家族や親族で原爆にあって生き残った方もだんだん減り、被爆された方がお爺さん、お婆さんの世代の場合は、その孫世代になっていましたから、この夜、慰霊にわざわざ足を運ぶ機会も減っていたからだろう、と淋しい光景を見ながら思いました。

さてその灯篭流しを見ながら原爆ドームの方に行きました。当時は原爆ドームはライトアップもされず、真っ暗で、近づくと巨大な真っ黒なものでしかありません。暗いので近くは人も歩かず、正直大きなお墓のように思いました。その光景を見てとても悔しく、また悲しく思いました。

「誰が墓にしてるんだ」確かにその歴史から感じることもありますが、被爆50年を超えてそれだけでいいのか、「墓ではなく平和の発信点にできないのか」と強く感じたのです。そしてまた「墓にしているのは私、広島の人じゃないか」と気がついたのです。

その時はその思いだけしか浮かばなかったのですが、「おりづる大会」の後夜祭で「夢灯りキャンドル」が灯された光景を見て、「このキャンドルで8月6日の夜、原爆ドームを灯りで取り囲んだら、平和の発信ができるんじゃないだろうか」そう思ったのです。

灯篭流しは振り返っての「慰霊」、キャンドルは未来に対する「平和の発信」。それが8月6日の夜の平和公園の光景にならないだろうか、「夢灯りキャンドル」を見ながら、その思いを後夜祭のメンバーと話し合いました。

そしてそれが「ピースキャンドル」として翌年、初めて灯ったのです。

そのことは次回。

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