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「てらみの」よ

「てらみの」と書いても何のことかわかるまい。以前書いたように私は総務大臣を更迭された「寺田(前)大臣」と小学校から高校までの同級生。
私は「鈴木」という名字なのだが、小学校から高校まで学校で私以外の「鈴木」姓は一人しかいなかった。一方「寺田」は同級生にもう一人いたので、そっちは名前に健がついていたから「てらけん」、こっちは稔だから「てらみの」と呼ばれていた。今でも同窓会では「てらけん」、「寺田(前)大臣」のことを「てらみの」と呼びます(本人に対しても)。

私は「てらみの」とは小学校の中学年の頃が一番仲が良かった。もう一人M君というのと三人でしょっちゅう遊んでいたが、今考えると「てらみの」とM君と私はハネにされていたグループだったのかもしれないと思うのです。彼にとっては黒歴史かもしれんな。
高学年になり私は皆と遊ぶことが多くなり、「てらみの」とM君を二人にしてしまうことも多くなったっけ。

「てらみの」は一人っ子だったのですが、お祖父さんが市会議長だったこともあり、高学年くらいから猛烈に厳しく勉強するようになった。というよりお母さんがいわゆる有名な「教育ママ」で、家に遊びに行ってもとても厳しかった記憶があります。
我々は小学校から高校までは国立の付属学校でしたが、全員が上がれるわけではなく、小学校から中学校では三分の二しか合格しないという時期で、私は落ちる候補でありました。恐らく4,5年生くらいまでは「てらみの」も中くらいのゾーンにいたんじゃないかな、それから「てらみの」は本当に遊ぶ間もないくらい机についていたと思う。一方仲の良いM君は不合格でした…。

中学に入るころ「てらみの」は上位の成績でしたが、この学校は中学から他の小学校でトップクラスの人が入ってくるから、小学校でトップクラスでもあっという間に中くらいになる。「てらみの」の新たな試練ですな(わたしはギリギリ合格した程度、J1降格争いみたいな状態で、毎年J2への落第をギリギリ阻止した程度)。
そこから再び机にしがみつく時期が始まります。「てらみの」の選挙用のプロフィールには楽しく部活にいそしんだなんて書いてあるけど、あれは嘘。帰宅部でありました。

高校に進んだ頃、再び各中学校からのトップが殴り込んでくる感じでしたから、「てらみの」も安心する暇はありません。完全な帰宅部でひたすら勉学に励んでいたと思います。
ということで、彼とは中学位から徐々に距離が離れていった感じでしょうか。まあクラスも違ったし、そりゃ成績トップとどん底組だからねえ~。学校でも部活(私は山岳)と帰宅部となりゃ、まあ遭遇する時間も減るのは必然。

その後「てらみの」は東大に進み、その後大蔵入り、確か30歳位には税務署長になったから、その後は出世街道ばく進というのは聞いてはいましたし、また大蔵時代に池田隼人氏の孫娘と結婚したと聞いて「ああ、やっぱり寺田の祖父譲りで、政界入りするんのかな」と思ってました。

確か「てらみの」が結婚したのは池田隼人の孫娘だけど、娘のお父さんは「大金持ちの金融ブローカー」と聞いていたので、あんまり筋が良くないのかな…とは思っていましたけど、池田行彦氏の系統にはあまり政治家を志す「タマ」はいなかったのかもしれないね。

で、「てらみの」は池田行彦氏の逝去後、地盤を引き継いで自民党から出馬したわけです。弔い合戦に勝って衆議院議員。ただ必ずしも選挙に強いわけではないので、民主党大勝の選挙では落選する苦労もありましたが、その後、本宅は岸田だけど、別荘は麻生みたいな感じで、有象無象の政治の世界で頑張っていたな、という感じを持っています。

さて、ここまでが私が知っている「てらみの」の経歴なのですが、では中身についての印象を書きます。あくまで私の印象なので、間違いは多々あると思うけど。

「てらみの」は一所懸命勉強して東大に入り、国家公務員のI種に首席で大蔵省に入ったというのは評判でした。
だけど「てらみの」が目指していたのかな?「てらみの」の家族、特に母親が願っていたことだと思うし、母親の夢、希望に応えようとしていたんじゃないだろうか。
つまり「てらみの」が東大、大蔵に行きたいと心の底から思っていたようには思えない。さらに「てらみの」は大蔵で何かしたいということなどもってなかったと思う。
私は母親の夢だから進んだ道だったと思う。それほど「てらみの」と母親の関係は深かったように思うのだ。私みたいに高校くらいで両親と大喧嘩するようなことはなかったんじゃないかな。

さらに言えば大蔵に入って、嫁さんと結婚したが、これも「てらみの」の希望、意志だったのだろうか。「てらみの」は政治家になりたかったのだろうか?
実際は周囲が道筋をつけてくれたので、そのまま進んでしまったんじゃないだろうか。

池田氏が「誰か後継を」と考えたときに、「大蔵の寺田がいいんじゃないか、広島じゃし、祖父は政治家してたし、毛並みもいい。姪に持参金付けて結婚させ、なんなら池田の養子にしてもいい」てなことを画策していたのかと邪推する。まあ養子にする前に行彦氏は死んじゃったから、寺田のままだけど、仮に「池田稔」になってたらもっと選挙は強かったと思う。

ということで、行彦氏の弔い合戦に出るのだが、その時点でも「てらみの」が何をしたいのかは見えてこない。当然一年生の議員辺りは雑巾がけからだけど、その後も彼の政治の理想、信念を聞いたことがない。もちろん選挙用の綺麗な言葉は聞くけど、「あんた本当にそれしたいの?」と応えてくれるようなものではない。

そういえば落選してた頃、学校の大先輩に呼びつけられて「お前ら同級生なのになんで先頭で応援せんのじゃ」と大説教を食らったことがある。だってあいつは呉~竹原が選挙区じゃし…と言っても許してもらえなかったな。結局同級生の中でも選挙好き(?)の友だちに頼んで、呉の事務所に顔を出してもらったり、選挙事務所と学校の同窓会つなぎをしてもらいました。
ああ、いやな思い出じゃわ。

さて愚痴は置いておいて、つまり「てらみの」は子どものころから周囲の期待に応え、結果を出すのが生き様であって、自ら何をする、何をしたいということを出すことができないんじゃないだろうか。
つまり自分がないのだ。

周囲がおぜん立てするからそれをこなせばよい、それを上手にこなせば周囲が喜んでくれる。その事が自分の役割だと錯覚し、本来すべき自分探しなどする必要がないと思ってしまったのじゃないだろうか。
今回の顛末も、まあ身から出た錆である。「てらみの」自身、自分があれば、早々に裸になって、身を引いたり、すべてをさらけ出すこともできたと思うが、自分がない上に、いまやその道筋を引いてくれる人がいない。
自分がやらなきゃいけないことだったのだ。いい年して今更、とは思うが、「てらみの」よ、そこに気がついてるか?


子ども時代の友人が勝手に考えることだが、そういうことであれば本当に哀れだけど、まだ間に合うと思う。岸田御大のことも私は30年来存じ上げているが、彼もどうやら「自分がない」御仁のように思う。岸田御大も首相になったはいいが、何すりゃいいのか、自分の中から出て来るものがないように見受けられる。

岸田、寺田ともに私と同い年だから65歳だ。高齢者に入るのだが、自分を見つけるのは今からでも決して遅くはない。

神谷美恵子氏の言葉に
「『生きがい』を感じるのは『自分がしたいと思うことと義務とが一致したとき』」
というのがある。
「てらみの」がやりたいと思うことと政治家としての義務とが一致したとき」ということだ、今こそ「てらみの」自身が人間として何を目指しているのかを問われている。
寺田よ、「てらみの」よ、今からやろうじゃないか。

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