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手放すこと、繋がること

イグナチオ・デ・ロヨラ「霊操」を読んでいる。その第二週4日目は「三組の人の黙想」という「執着」に対する心得が書かれている。

「大金を手に入れたが、このお金は純正たる神の愛のために得るべきだったが、そうではない。しかし救いを望み、神を見出したいと思っている。その為には儲けたものへの執着が重荷となり、障害となるから、この愛着を取り除きたいと思っている」という課題。つまり「濡れ手に粟の大金を手にしたが、本当に持ってたり、使って罰当たらないのかな?という不安」だろう。
これに対して三つの対応が提示される。

1 「儲けたものに対する執着を取り去ることを望んではいるが、臨終の時まで何もしない」
2 「儲けたものはそのまま持っていて、執着だけを棄てたいと思う」
3 「儲けたものを保つとか、保たないとかという愛着さえも抱かないように執着を捨て去ろうと思っている」

興味深いのは、儲けた対象に対する執着と、それをどうするかという執着(愛着)を分けていることだ。つまり金そのものへの執着、それをどう使うかという執着は違う、ということだと解釈する。

先日、NHKのBSの「ニッポンぶらり鉄道旅」で東京メトロ日比谷線をやっていた。最後に出た北千住の「銀ザケ専門店」。グルメの話かな?と思っていたら(グルメはグルメなのだが)その店主がものすごい人だった。紹介されたサイトがあるのでそれを貼り付けておきます。

ここでも紹介されているが、この主人の話の中でチャイナタウンのパン屋さんの話がある。まさにこの店主の振る舞い、そしてそれに触発された主人の振る舞いは、3番目の域じゃないだろうか。

「霊操」というのはイエズス会の瞑想、禅の手法なのだが、教会や寺で瞑想や禅を組まないとこの生き方に達することができないわけではなく、パン屋さんや食堂で料理をする中でも実践が出来ること、心が高まることを示してくれている。

濡れ手に泡で思い出すのは、阿武町の行政の大失態(山口銀行も失態だと思うが)だ。振り込まれた人は突然の嵐の中に突き落とされた思いじゃないかな。昨今の風潮は「自己責任」で徹底的に叩くという流れなので、お気の毒にも思う。
実は私は、これは行政と銀行のミスだから、責任はこれらにあって、本人に責任はない、もちろんとばっちりだから返金すべきではないと思う。ただ、使い方が(本当かどうかわからないが)カジノなのはちょっとね。大坂や長崎のIRのカジノ推進派の人はどう思ってるんだろうか。
でも仮に使途が、本当に必要としている人たちへの寄付だったらどうだっただろうかと思う。
山口県内の子ども無償食堂が仮に10か所あれば、そこに460万ずつ振り込んだとしたら…果たしてそれに対して「返金しろ」とか「電子計算機使用詐欺」で逮捕なんてことはできたのだろうか。むしろ鼠小僧治郎吉とかロビン・フッド扱いで講談の主役になるんじゃないかな。

ところで「霊操」には、この「執着」以外にも「謙遜」についても心得が書かれている。「謙遜」はこの阿武町の事件をメディアで取り上げる人、テレビ桟敷の前の我々が学ばねばならぬ項目だろう。「霊操」で示されている生き方から学ぶべきことは多い。

実は、この本の訳者「門脇佳吉」氏の冒頭の「解題」というさわりを読んでいて、氏との接点を薄っすら感じたのです。

氏は旧制静岡県立見附中学の出身で、この学校では臨済禅に基づく禅的教育を体験し、その上でイエズス会(上智大学)で学び、また卒業後広島のカトリック広島教区長束教会で過ごされ、この「霊操」の実践を繰り返されたとありました。
さて、私との接点は
①見附中学は今の磐田南高校だが、ここは母の母校である
②私の本家も磐田にあるが、ここもまた臨済宗のお寺が菩提寺。先年お目にかかった本家のお寺のご住職は中学校に禅の指導をしていると聞いた
③上智大学は私の出身校
④長束教会はここ数年お付き合いいただいている、現萩カトリック教会司教様のアレックス神父がおられたところ。(本日のタイトル写真はアレックス神父に薦められ、先日伺った『津和野カトリック教会』です)

そのアレックス神父が広島におられたときに「『カトリック幟町教会 世界平和聖堂』の中に「霊操」の部屋があり、自分が「霊操」を指導している。鈴木さんは禅の経験が少しでもあるなら、一度参加してみては」と言われたことがありました。しばらくほったらかしていたが、これもまた接点かもしれないな。また母校のイグナチオ教会ではオンラインで勉強できるようだ。

新規シリーズ(?)は9月スタートだな。

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