見出し画像

「海幸」「山幸」を連想

昨日は「廣瀬神社」と「空鞘稲生神社」の内、広瀬を中心に知ってる程度ですがアップしました。続いて空鞘さんについてもう少し書いておきましょう。

実はそれぞれの神社から少し南に下った「相生通り(電車通り)」の南の榎町に「恵美須神社」という神社、そこから東方向の本川、平和公園の対岸に「本川浜胡子神社」があります。それぞれ榎町の方は広瀬神社、河岸の方は空鞘神社がご担当というか摂末社とかになるのかもしれないが、いわゆるそれぞれの宮司さんがご担当される「兼務社」になる。浜恵比寿の方は土橋の町内会さんがもう一度盛り上げようと、空鞘の宮司さんを呼んで勉強会をするなど努力されており、私もその勉強会に参加して伺い感心したこともある。

https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/100630.pdf


昨日は大広瀬島(洲)が埋め立て、干拓だったので徐々に広がる共に南に氏子を広げたと書いたのですが、平和公園から吉島にかけての途中に「住吉神社」がありますが、あれは江戸中期、浅野さんの時にできた神社なので、どっちかと言えばあのゾーンは老舗が空鞘、新参者が住吉なのかな?古いと言えば空鞘の宮司さんが言われていたのは、かつて空鞘の宮司さんは向洋あたりにおられて、船で当時の海岸沿いを回ってきていて、白神社も管理(?)されていて、その後空鞘に向かうというコースを取っていたそうです。平和大通りに沿っていたわけですから、そこから南の神社は海の底ですから、江波のように島でなければ、後の埋め立てによって生まれた神社ということになるんですね。

その大広瀬島(洲)の一番南側にあたる「江波」は島だったのが、のちに干拓で地続きとなったのですが、もともとこちらには「衣羽神社」という古い神社があります。厳島の管弦祭の時にこの江波から御座船が出る由緒正しい神社。その御座船は祭りの時、本川を漕ぎあがり、今の平和公園の鼻の所(相生橋)まで来て、少し下った本川橋で岸に上がり接待を受けています。かつてはこのあたりの豪商が勧進元だったが、今は中国新聞がご接待しているそうです。

その御座船はかつてはもう少し上流の空鞘稲生神社まで漕ぎあがっていたそうで、それは厳島神社、衣羽神社と空鞘が繋がれていたという表れということなんでしょうね。

空鞘神社でお祀りしているのは「宇迦之御魂神・宇氣母智神・和久産巣日神」で五穀の神様であります。

衣羽神社は「多紀理毘賣命・多岐都比賣命・市寸嶋比賣命」、厳島神社は「市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命」なのでこれは宗像三女神だ(字が違うのは古事記の記載と日本書紀の記載の違い)。つまり海の神様ですから、そちらが川を上がって五穀の神様と出会うという形、「海幸」「山幸」を想起しますね。前も書いたようにこの堺町は西国街道が通っていたし、出雲石見街道(雲石街道)との接続点もあった。陸の物流と、江波方面からの海運の結節点として、この界隈にとっては誠にふさわしいお祀りの形態だったのだろうと思う。

写真は榎町の「恵美須神社」さんの御神木の「開運招福御礼」札です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?