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愚者の楽園

「ステラ・マリス」と「通り過ぎゆく者」さらにサブテキストとしての「恐るべき緑」の続き(最終回の予定)ですが、やはりアリシアと兄ボビー・ウェスタンの両親が原子爆弾に関わっていたことは、マッカーシーの二冊の兄妹の人格の背景に深く関わっています。今回はそのことを少し紹介します。

先ずは、兄のボビーがオッペンハイマーと共に父親が原爆開発していたことを問われ父親の経験を答える個所(文中の彼とは父のこと)

「広島で被爆を逃れたあと愛する人たちが無事であることを確かめるために急いで長崎へ行った人たちがいた。そして着いたそのときに焼き殺された。彼は戦争のあと科学者のチームの一員として長崎におもむいた。わたしの父は。彼はすべてが錆色だったと言った。何もかもが錆に覆われているように見えたと。街路に路面電車の焼けた残骸があった。ガラスが窓枠から溶け落ちて煉瓦の上に溜まっていた。黒焦げのスプリングに腰かけた乗客たちの炭化した骨格は衣服と髪を失い骨から黒く焦げた肉の切れ端が垂れさがっていた。眼窩のなかで茹でられた眼球。唇と専の焼け落ちた痕。みな座席に坐って笑っていた。生きている者は歩きまわったが行き場はなかった。何千人もが川に入りそこで死んだ。彼らはどの方向に向かっても別の方向に向かうより好ましいとは言えない点において昆虫に似ていた。燃えている人々が死体のあいだを這っているさまは巨大な火葬炉のなかの恐ろしい光景のようだった。彼らはただ世界が終わったと考えただけだった。」

つまりボビーは父親から地獄絵図のことを事細かく聞いていたのです。もちろんそれを引き起こした科学者の一人が父親であったことも。

一方、アリシアが核開発の科学者の責任について父が答えたこととして

「核爆弾を実戦配備するかどうかについて科学者たちにも意見を言わせろという運動が初期の頃に起きたことがあったけど父はそれは世間知らずな考え方だと言った。核爆弾はその費用を支払った人たちのものであって断じて科学者たちのものじゃないと。」

この辺り、兄妹の捉え方、視点の違いがあることが面白い。いずれにしても父親はそのように受け止めたが、その受け止め方はあまりに軽すぎて、結局は兄妹がその巨大な責任を肩代わりして負わされることになり、二人の人生に大きく影響したのだと読み進めながらわかります。

さてここで紹介するのは、サブテキストとして読んだ「恐るべき緑」で紹介されているグロタンディーグの言葉。

「地球を滅亡させるのは政治家ではない。黙示録に向かって夢遊病者のように歩む自分たちのような科学者なのだ。広島と長崎を木っ端みじんにした原子は、将軍の脂まみれの指ではなく、一握りの方程式で武装された物理学者の集団によって切り離されたのだ」

父親の受け止めとは対極にあるようですが、この感覚にボビーは近いのかなと思います。

今日のタイトルですが、これは「ステラ・マリス」の方からです。この本はアリシアとメディカルドクターのコーエンとの対話が延々と続くのですが、その中に

「戦争が終わるのを見たことがあるのは死んだ者だけだと言ったプラトンにわたしは賛成する。あと人は銃を持っているとき石では戦わない。などなど。
われわれは今愚者の楽園で暮らしていると。
どういう場所で暮らしているのかは知らない。」

太字の部分がコーエンの発言ですが、これすごくないですか。まぎれもなく2024年の今、私たちは愚者の楽園の住人であることを自覚していますし、その先にある結末も知らないふりをしつつ、本当は知っているのだと思います。


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