見出し画像

芝生の上の絶叫

図書館に行ったら新刊の本棚に虫明亜呂無氏の「むしろ幻想が明快なのである ─ 虫明亜呂無レトロスペクティブ」というのが目に入りました。
虫明氏の本は大学生の頃よく読んでいました。
最初は、競馬がらみで読み始めたました。当時は競馬のことを題材に書く人は虫明氏以外、寺山修司とSF作家の山野浩一氏くらいでした。今は競馬番組にアイドルとかお笑い芸人とか色々な人が出てきますが、当時は競馬はまだまだ日の当たるものではありませんでしたね。
競馬場もきれいとかオシャレなんてどこにもなく、スタンドのコンクリートの上に新聞を広げて酒飲みながら予想するオッサンが大半でした。
その中で寺山氏は競馬ファンを描き、山野氏は馬の血統から、そして虫明氏は馬の走る姿を美的に表現していました。

そんな虫明氏の本は、高崎氏が編んだコンピレーション。氏の映画、競馬、スポーツ、絵画等美的な対象とその表現に溢れています。今では少し時代遅れな所ももちろんありますが、それでも懐かしくも素晴らしい。

その中でサッカーについて書いている「芝生の上のレモン」という作品があります。その中にびっくり仰天した箇所がありましたので、無断で抜き出します。


芝生の上のレモン

「広島国泰寺高校のグラウンド。西中国高校サッカー大会のときのことだ。太陽を背にしてフォワード、パックス一体となった波状攻撃が、頂点に達し、乾坤一擲の思いでチーム全員の総力が最後のシュートに叩きつけられようとした瞬間のできごとであった。野のはずれですさまじい叫びが発せられた。
それが人間の声だとわかったのは、私には幾時間もたったときのことと思われる。
人間の絶叫で、あれほど、大きい声を聞いたことがない。その後の静かさ、物音ひとつしない静かさ、グラウンド上の選手はもとより、グラウンドのまわりの観客のだれもが沈黙した。長い間、沈黙はつづいた。そのように感じられた。夏の太陽だけが、容赦なく照りつけていた。グラウンドがまぶしかった。かぎりなく遠くに、グラウンドは反射していた。

倒れた選手の折れた足、肉を内からつきさいて骨が外に出ている。骨の先端にはストッキングの切れたはしがひっかかっている。肉は鋭利な刃物でそぎとったように鮮やかな色をしていた。選手も、観客も、声を殺して、後ずさりしているように感じられた。そして、倒れた選手の前方に、もう一人、うつぶせに倒れた相手側の選手がいるのが目にはいった。
私の背後をあわただしい足音がすぎさった。それが合図のように、今度は選手と役員たちが地に倒れた選手のまわりにかけよった。担架が呼ばれ、傷ついた者ははこびさられていった。もう声は聞こえなかった。夏空をゆるがした絶叫だけがいつまでも耳にのこった。それが、彼が私たちに残した、ただひとつの生きた証しのようであった。

そして、何事もなかったように、ホイッスルがなり、選手が声をかけあうのを合図にして、すぐに野の舞踏、いっそうの強暴さと、勇壮さを復活した舞踏がふたたびはじめられていった。」

う~ん、国泰寺高校と私の母校はグラウンドが広く、よくこういった大会の会場になっていました。もちろん芝生などなく土のグラウンドでしたが、なんとなくこの光景が思い浮かぶような気がします。
しかしこの骨折は凄いな、倒れた相手の選手もどうなったのでしょうか。怪我とか危険なプレーはとんでもないですが、それだけ厳しい戦いをグラウンドの上でしているのだと改めて痛感した次第です。

また並行して読んでいた堀江敏幸氏の「回送電車Ⅳ 中継地にて」に「毬足の発する言葉」というものがありました。
蹴鞠の名手である「飛鳥井雅経」に関するコラムで、飛鳥井は蹴鞠だけでなく和歌の名手でもあります。
新古今和歌集(秋歌・483)に飛鳥井の
「み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり」
とありますが、その飛鳥井氏について堀江氏の「毬足の発する言葉」から一部抜粋。

建久八年(1197)、当時鎌倉にいた飛鳥井雅経を都に呼び寄せたのは後鳥羽院だった。自身も一流の鞠足だった院によって、雅経は歌人としてではなく競技者としてスカウトされたのである。その年の2月25日、26日と連続して開かれた院の鞠会の後者において、雅経は明足(ファインプレー)を連発し、とりわけ3連続の延足で周囲を沸き立たせた。延足とは「遠い鞠を追いかけていって、身体を鞠に投げかけて地面すれすれで蹴り上げるプレー」を意味し、「左の膝を地面につき右足を鞠に向かって出して蹴る」もので、「鞠に対して滑り込むようにして蹴ることになったから、地面に左の沓先を引きずった跡が付いた」。名足がやると、最後の一歩で一丈あまりの跡がつくという。
名足は雅経ひとりではない。しかし瞬発力と状況判断力において他の追随を許さないプレーヤーによる言葉のパスが、先の「み吉野の山の秋風さよふけて」の一首に通ったと考えれば、語句のつなぎの呼吸と流れが鞠球の筋に重なって見えてくる。鞠球を受けて一度高く蹴りあげ、空に向けた目を鞠といっしょに落とし、身体に添わせて右足の先に誘導することで技量の高さを見せつけながら大きくまた蹴りあげ、ふたたび鞠球と一対一になったまま、つぎの鞠足にパスを出す一連の動きにぴたりと合わせる。 秋の風もふるさとの寒さも衣を打つ音も彼は鞠球への注視のうちに消し去り、無音のなかではっきりとした幻聴を聞く。そして、その音源までの距離を延足で踏破し、衣を打つ想像上の音の余白に受け手が走り込む間を予測して言葉を出す。

「移りゆく雲に嵐の声すなり散るかまさきの葛城の山」(新古今和歌集 冬歌・561)

プレーとしてはネイマールやメッシがやるような、ゴール前でダイレクトで浮き球を受け、そのまま相手をかわすように空中で前に浮かし、そしてシュート。そう言った光景でしょうか。
飛鳥井の周りには蹴鞠を打つ時の音以外は静寂のようですが、その実彼には嵐のような音が聞こえているのでしょう。

先程の「芝生の上のレモン」の肉体が発する絶叫とは対照的ですが、これもまたサッカー(蹴鞠)の静かなる絶叫といえるでしょう。

さてサンフレッチェの新スタジアムもピッチに芝が貼られたようです。

広島城側から

素晴らしいピッチの上で怪我なく、多くの声と音、歓声がこだまする素晴らしいゲームを見せてもらいたいという期待と思いで一杯です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?