見出し画像

「ここじゃないもの」に行くには

地元紙の文化欄に「柴田元幸」氏の記事があった。

私はこの記事にある「MONKEY」も良く読むし、かつてはこの出版社がやっていたラジオ番組もよく聞いていた。柴田氏の回はとても楽しみだったが、ああいった定期的な朗読の番組はもはやNHKくらいしかないのが残念である。

その中でタイトル写真にもあるが、「『モラトリアム世代』学費も安かった」というのでハッとした。確かに昔の方が随分学費は安かった記憶がある。私は高校までは公立で、大学は東京の私立だ。私の子どもは長男は高校までは公立で、大学は横浜の私立。次男は中高は私立で、大学は東京の私立。娘は中高と公立(国立)で、大学は神戸の国立だったから、子どもの間でもそれぞれの学費については随分差があったという実感がある。

しかし私のそれとは桁が違うような気がする。この柴田氏のようなモラトリアムが出来るのは、一つに学費が安かったことがあるし、それにより柴田氏は自分の行き先を見つけて、私たちに文学として還元してくれた要素にはその学費の安さも間違いなくあったと思う。

この文科省の表から見ると、私は昭和51年に私立大に入学したから授業料221,844円、入学金121,888円で、初年度に大学に収めたのは343,732円となる。この表は平成17年までなので、続きは別で調べてみると

長男は2008年に私大で1,123,790円
次男は2012年に私大入学だから1,124,683円。
娘は2014年に国立大だから817,800円

となる。息子らとは三倍、娘とは二倍近く違う。また、それぞれ地方から行ってるので、当地の自宅通学者と比べるとさらに住まいや生活費がグンとかかるので、いや~今更ながら大変だったと思う(今はそれぞれ社会人です)。
これで柴田先生のように「一年モラトリアム」なんていわれたら、「何、言うとんなら!」となったでしょうね。
でもそのモラトリアムが何かを生むとしたら、決して無駄なことではない。
記事の冒頭にあるように、今の足元から「ここじゃないもの」を見るんじゃなくて、時間にも空間にも束縛されずそこに行くにはモラトリアムは必要なことだともいえる。
だがそれを許さないのは、汲々とした社会、高い学費、それに対する政府の無策につきるのではないでしょうか。
それが生み出すのは結局、今見えているところまでしか見えない、今いけるところまでしか行けないという「想像力の自己規制」が働いてしまうだけなんじゃないかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?