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高みに立つ嫌らしさ

図書館で「中井久夫 人と仕事」を借りましたが、一読後、これは何度も読み返すために購入するものであると思っています。

中井先生の評伝にあたるのですが、先生の姿勢は患者は患者で、自分は医療の側というのではなく、本の案内にもあるように
「誰もが病気になりうる存在であって、自分たちにも統合失調症の人たちが示す症状が一過性でも起きることはある。だから治療にあたっては症状よりも患者の健康な部分に光を当て、そこを広げていけばいい。慌てずに患者を見守っていなさい」

「ひょっとすると自分も」という患者や相手の立場に立たれるのです。

例えば神戸の少年Aに関わる所では

「長い間、私には犯罪精神医学に対して違和感があった。それは『自分は犯罪者とは別人種』という高みに立つ嫌らしさである。『ひょっとすると自分もやったかもしれない』という、人間性の危うさを共有する視点への変換が必要なのだ」

「同じような犯罪はかつてもあった。災害も。しかし、一度も今のように行為者の「心」も被害者あるいはその家族の「心」も問題にされなかった。それは少しずつ変わってきた。
これは、私たちの社会の一定の成熟であると認め、人の心の痛みがわかる世代がようやく 社会を担う位置についたと考えてはよくないか。(中略)
では、私たちの十歳代の少年犯罪に対する不安は何だろうか。今の十歳代の殺人はおどろおどろしいものの氷山の一角ではないか。たとえば日本は世界最大の児童ポルノ・ビデオ輸出国として世界の指弾を浴びている。少なくともそれだけ被虐待児があるということだ。 そして今の犯罪大国米国は、児童の虐待と無視、家庭崩壊、貧困が作った(パトナム「解離」1997年)。こういうものは私たちの周囲にすでにある。とすれば問題は成人に差し戻される。不安は私たちの今の生き方ゆえの不安なのではないか。」

中井先生の指摘するように、我が国には野放図な児童に対する虐待を見て見ぬ姿勢があったからこそ、ジャニーがやったような性犯罪は起こりうる土壌があったのは事実だと思います。
さらにここで米国であった「児童の虐待と無視、家庭崩壊、貧困」は周囲にある以上、そもそもの問題はそれを放置している成人(大人)に責任があるということですし、ジャニーに対するマスコミやファンの姿勢は「あれは故人の問題だし、性犯罪にかかった少年も問題がある」という表現は「私は別人種」という「高みに立つ」言動以外の何物でもありませんし、それはその人や組織が問題を「喉元過ぎれば」としてスルーしていきたいという汚れた心を示しています。

「別人種」ということで言えば先月あった韓国のDJへの性犯罪事件

ここでも紹介されているSNSの引用
「露出した衣装やめた方がいい」「そんな格好で近づいて自業自得」はまさに「別人種」高みに立つ嫌らしさ以外の何物でもないでしょう。

先日NHKの世界のドキュメンタリーでエイミー・ワインハウスの番組がありました。

友人たちが彼女の思い出を語る中で、ハッとしたのは彼女がとても若かったということ。
20歳でデビューし、グラミー賞を5部門でとったのは25歳、亡くなったのは27歳。本当に駆け足でした。そんな僅か7年ですが急性アルコール中毒による死や、良くないパートナーとの薬物乱用ということが頭に残っていたし、ファッションもパンク風でおとなしくないのが私の頭に刷り込まれていたのかな。ヒットした「Rehab」もアルコール中毒のリハビリの歌詞でしたからね。

しかし、この番組を見ると、エイミーは普通の20代の女性。しかしそんな20代の女性に対して過大な、暴力的なストレスがあったことがわかりました。
中にパパラッチ記者がいて、彼女がエイミーを追いかけて撮影した後、途方に暮れる20代の女性の姿を目の当たりにして、いかに暴力的な行為をしていたのかに気づき愕然とし、「何ということを…」と気付いたというインタビューもありました。

中根先生の本には、PTSDやストレスなどが引き起こす疾患についても書かれていて、エイミーもそうだったのかもしれないと心から気の毒に思いました。
自分に置き換えて、いやそれより私の娘は25歳なので、エイミーに重ねてみると、堪えられない思いになります。
「ひょっとすると自分も」「ひょっとして自分の身近な愛する人が」と考える足場を持たねばと思いました。「別人種」の視点に足を踏み入れるのは嫌です。

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