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25年

それからピースキャンドルを灯し続け25年になりました。キャンドルには「平和の祈り」「夢」「希望」のメッセージを書いていただき、多い年には1万個を超えるキャンドル、平均して毎年5000個のキャンドルが灯りましたので、25年間で10万個以上のキャンドルが灯ったことになります。

一つ一つのキャンドルは手作りで、一つ一つのメッセージもそれぞれの方が書いたもの。それを灯すということはその思いが8月6日に原爆ドームから広がっていくことだと信じて続けていました。キャンドルは誰かが作り、誰かがメッセージを書き、誰かがドームの周りに並べ、誰かが種火から火をつけ、誰かが見ます、そして誰かが消し、片づけます。イルミネーションのようにスイッチをパチンと入れたら一斉につくものではありません。それぞれに人が関り、それぞれが役割を果たすことが大事です。

私は平和も同じだと思います。誰かスーパースターが「核兵器止めよう」とできるものではないし、期待してはいけないと思います。一人一人が自分が出来ることをやることによって実現する総和が平和だと思います。ピースキャンドルはそのことを表していると思っているのです。

さて、そんなピースキャンドルですが「いつまでやるの?」という質問には、「世界が平和になった時が灯すのをやめる時」と答え、細々とで良いから灯してしていました。

政治的な意味合いをなくすために、行政などからの金銭的な支援ももらわないようにして、参加者の方にキャンドルの実費(蝋の費用)をいただくだけで運営してきました。当然ながら利益が上がるわけではなく毎年トントンか、赤字の事業でした。それでも20年以上続け、最初に始めた頃は8月6日に足を運ばれる方は少なかったのですが、毎年増えて1万人を超える方が8月6日の夜にドームに足を運んでいただきました。

キャンドル作成で一番多いのが広島の小学生でした。一学期に学校で作成するだけでなく、8月6日の夜にも来てくれます。児童だけではこれませんから、保護者の方や先生と共に足を運び、自分のキャンドルも、友だちのキャンドルも見ていただきます。ですから小学校の場合、仮に学年の児童の数が60人として、それが25校となると1500人(個)。その内7割が足を運び(1050)、かつ保護者や兄弟を連れて(×3)とすると3150人です。またそれ以外の公民館、修学旅行、特別支援学校等々が作成の段階から参加されますから、あっという間に関わる方は5000人を越えます。もちろん8月6日の夜に平和公園に来るのですから、ピースキャンドルだけでなく、灯篭流しや慰霊碑にも足を運ばれます。かつて少し少ないな…と感じた8月6日の夜も多くの方がお越しになるようになりました(もちろん灯篭流しをされる方も増えたはずです)。

そうそう、特別支援学校さん。友人が先生でいたので早い時期から声をかけて参加してもらいました。それは「おりづる大会」で見た光景を再現したかったからです。先生と話をしていても「障害者だけ集まる機会はあるが、一般の行事に健常者、障害者の区別なく集まれる機会は少ない」といわれていました。「後夜祭」での、まさにその区別なく楽しまれていた光景が頭から離れませんでした。「よし、それをここで再現しよう」そういう思いで広島県内のすべての特別支援学校にお声がけし、多い時には8割以上の学校が参加してくれました。作るだけでなく8月6日のピースキャンドルの点灯から運営までボランティアとして先生、生徒が関わってくれました。卒業した生徒たちも「毎年この日にここに来れば、先生や友だち、後輩に会えるから」と勤め先から来てくれました。この時、この場だけだったのかもしれませんが、施設や設備でなく心のバリアフリー、それは本当に「平和」な光景でした。

こんなこともありました。広島の視覚障害者の中学校に行った時、全盲、弱視の生徒さんが果たして出来るだろうか?と失礼ながら思いましたが、とても上手に作り、その後クレヨンで各人がメッセージを描きました。そのキャンドルを最後にみんなで取り囲み点灯しました。

とても素晴らしい光景でしたが、実は物凄く感動したのは、弱視の生徒さんが灯されたキャンドルに顔を近づけて「あっ君のはこういうの書いてあるよ、こういう気持ちでかいたんじゃない」と丁寧に説明し、それを全盲の生徒さんが笑顔で聞き、答えている姿でした。これこそがピースキャンドルの願い、平和な世界だと実感した瞬間でもありました。

しかし20年以上続けたピースキャンドルにおいても、新型コロナから受けた影響は深刻なものでした。

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