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裏切られた期待


裏切られた期待

『男性講師』への期待

受講前の私について書いてきたが、
受講スタートしてから、私が講座を受ける時に、まず前にやってきた講師が男性だった事に、ある種の期待があった。
 男性講師って、さも寄り添ってる風で、結局は自分の答えに誘導するよね
きっとまた、今目の前にいるこの講師も、学びを提供する以上は、学びの答えに誘導するんだよね。
それなのに「それがあなたの答えですね」なんて、したり顔で言う場面をいくらでも見てきた。

私の学びの姿勢

そんな斜に構えた姿勢が、私のその時の学びの姿勢であった。
今までさまざまな学びを通じて、
結局はゴリゴリに学びの答えに誘導して行く人は、私の経験の中では、女性よりも男性の講師の方が多かった。
しかも、子育てに積極参加していない男性講師の方が多い。
そうなると、私よりも年上の男性講師は、子育てに参加する男性の方が少ない時代だっただけに、ある意味私の期待通りに、学びの答えへと3〜40人いる集団を誘導して行くのだろう。
男性講師に対するネガティブな期待と、私の持つ根っこを無くしたい期待と、なってしまったリーダーという役の責任感と。
いろいろなものが心の中にあり、心の所在無さを感じながらも、前に立つ男性講師にずっと注目をしていた。
今まで学んできても抜けなかった根っこを、今回こそしっかり抜き切りたいから、今までの男性講師から受けてきた「学びの答えへの誘導」という嫌な期待を裏切って欲しい。
文字に書くと簡単だけど、その思いは意外と切実だった。

裏切られた期待

講座は、座学もありながら、ワークショップが中心。
1対1で膝を突き合わせる形で話すものもあれば、チームで話すもの。
3人で話すものなどもあったと思う。
今までに経験した事のないワークショップもあり、ただでさえ心の所在無さを感じていたのに、経験した事のないワークショップを通じて、心を揺さぶり動かされる感覚がした。
そして、ワークショップを通じて何を感じたのかを、皆の前で自己開示をする。
正直3〜40人を前にして自己開示する事は、誰だってストレスを感じる。
私も、今までの学びの経験から、自己開示が大事な事も知っているし、比較的得意だと感じてきた。
なぜなら、自分自身の価値をあまり感じていないから、自分のダメさを人前に晒す事に抵抗感をあまり感じていないと、私自身理解していた。
(それは、後の講座受講を通じてもっと深く掘り起こされて、自己開示に抵抗が強くなった事もあった。自分を守りたいという思いがこんなに深いところにあったのかと驚かされた)

そのストレスを感じる自己開示に対して、男性講師が質問をしていく。
この質問が曲者なのだ!
学びの中のAという項目に対して自己開示してくれた人に質問しながら、次のBという項目にスムーズに繋げたいと講師の思惑があると、その思いが質問に影響してBに繋げられる質問を、自己開示しした人にしてしまう。
目の前の「人」ではなく「全体の流れ」を意識してしまって、誘導的になる。
きっとまた、これだけの人数がいるからこそ、全体の流れを意識して、この自己開示している人に注目した質問にならないんだろうな…
そう斜に構えて眺めていた。

しかしその男性講師は、しっかりと目の前の人の自己開示を聴き、それに対して深くその自己開示をさらに深めることができる質問をして行く。
自己開示した人と、男性講師。
その2人が目の前でどんどんと深めて行く時間を、私たち他の受講生は見学をしている。
私が自己開示した時にも、男性講師はその時間私だけに注目をして、私の為に深める時間をくれた。
多くの人が見る中での自己開示をさらに深める時間は、緊張や怖さも感じるものの、もっと深めて自分を自分がよく知りたいと思えてくると、どんどんと前で話したくなる。
目の前で男性講師から質問を受けて、表情が明るくなっていく人を見ていると、私もその明るく開ける感覚を手にしたくなる。
それもこれも、「全体の流れ」のためにとか、「ここにいる全ての人にとって良いものに」などではなく、自己開示した目の前の「人」にだけしっかりと注目して深めるからこそ起こるもの。

良い意味で裏切られた先の信頼

男性講師の質問の仕方や、人との向き合い方。
自己開示の扱い方、自己開示する人への寄り添い、全体への配慮。
それらが、ただの「技術」ではなく、「人としてのあり方」から引き出されているものだと感じられて、当初持っていた期待を裏切られた。
こんなに心地よい、嬉しい期待の裏切られ方はない。
この場に、自分を委ね晒け出しても良いんだと、心底感じることができた。
これを世の中で言う「心理的安全性」と言うものなんだと腹の底から感じることができた。

すると不思議な事に、ここでの学びに対して、自分がどのように感じてもOK!どんな受け取り方をしてもOK!それを伝えてもOK!と、まるで子どものような無邪気さが自分の中に湧き上がる感覚になった。
そうなると、学ぶ内容がその瞬間自分の中で楽しんで試したくなる気持ちになって、人との心の垣根が低くなっていく感覚が生まれた。
目の前の「初めまして!」の人とのチームがありながら、チームの中でのフィードバックが、今まで感じてきた「初めまして!」の人たちとのチームでは起こらない、相手を信頼して伝えることができるからこそ、その言葉が深い。
「佐紀はここにもちろんいるし、しっかり私たちのリーダーもしてくれているけれど、でもどこか佐紀がまだ見えない。どんな人なの?って」
もしもこの言葉を普段私が聞いたら、「そう見えるんだね!でもよく、そういう感想もらうから、やっぱり私ってそうなんだね」で終えていた。
でもこの場だと、「どうして私は、いつもそう見えてしまうのだろう?どんな自分だと、見える自分としてここに存在できるんだろう?」と言う自分への問いが生まれたり、もっと信頼し合える関係を作りたいという欲求が生まれたりしていた。

学びも、場であり人のあり方

学びの素晴らしさは、もちろんある。
心理学などが、専門用語で語られず、日常の私たちの生活の中で生まれる「現象」として伝えてくれるから、すぐに納得して理解する事ができる。
だけど、その学びを自分のものにできるのかどうかは、その場の安心感と、講師のあり方が土台になっている事をすごく体感をした。

もしも同じ学びを教えてくれる場所があったとしても、同じだけの効果をもたらすか?と考えると、その学びを伝える講師のあり方によって大きな差がつくだろうからこそ、ここでこの学びを体感的にまで得られた事は大きいし、唯一無二だと思う。
言葉を選ばなければ、どれだけ男性講師の「あ〜、はい。残念」を見てきたことか。
講師のあり方が大きく影響するからこそ、このしっかりと人を深く見ながらも全体も配慮する、この男性講師のあり方が支える場で学ぶ事は大きい。

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