新建築5月号月評ゼミ前夜

来る新建築5月号月評ゼミを前に、自分の考えを整理するためのテキスト。

「京都市美術館」と「弘前レンガ倉庫美術館」、この2つの美術館を見て建築の生々しさ、みたいなものを考えさせられた。

きっかけは弘前における論考で「延築」という言葉を見た時である。ここで田根は「(中略)欧州で目にしてきた「修復」の技術を思い出した。古いたてものを直すために部材を検証し、制作当時の技術や素材を学び研究する。過去と対話しながら作る方法である。」と語っている。ここに違和感を覚えた。過去から未来へ、記憶を連鎖させると謳われてはいるが、その実態はどうだろう。

例えば、冒頭で倉庫として使われていた建物は日本酒製造、シードル製造、製造業、空き倉庫というように時代とともにその使われ方を変えてきたことが窺える。この度剥がされた壁の漆喰たちが物語るように、既存の空間には生きた証としての転用の痕跡が無数にある。そしてそれらは時代ごとにある要素が加えられて、またある時代に何かが取り除かれたことの来歴である。すべてがこの建物の一部であり平等な態度を取るべきではないだろうか。過去のある一点へ時間を戻そうとする必要は無いし、止まることもない。建築の生々しさをそのまま継いでいけるような、そんな語りや設計の態度でもよかったんじゃないかと思う。だってこの建物はこの先もきっと生き続けるのだから。

屋根に対する次の時代と接続しようとする態度は評価したい。一方でエントランスに関しては、過去のある時代を生きた証がファッションとして生け捕りにされているように見えて好感を持てない。

京都市美術館も弘前同様、長い時間を生きてきた建築である。青木淳の態度はそこに非常に自覚的であるように感じた。繋ぎ目なく滑らかな手つきで既存をふわふわ浮かせすぎないギリギリのところで引き留めながら、新しいレイヤーと繋げている。新しく加えられたレイヤーは過去のそれとは違うものでありながらも、同じくらいの強度を持っているように思えた。

訪れた人々がスキーマを構築して紡がれる物語たちは、過去の一点に囚われることのない自由な広がりを見せてくれそうだ。思いつきそうで思いつかない発想と戦略に嫉妬と好感と敬意を覚えた。(偉そうなこといってすみません)

建築の生をそのままにすること、そんなことを考えずにはいられない2作品でした。

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