見出し画像

「ウルトラマンかくあるべし」?

ゼロさんオススメということで久々に『空の贈り物』を見て、前々から気になっていた疑問点が意識に登ってきた。

ウルトラガチ勢から見て、佐々木守回はどういう立ち位置なのだろう?

1.佐々木守回の問題点

言うまでもないことだが、『ウルトラマン』には日本的な宗教観が色濃く反映されている。
科特隊は怪獣対峙の専門家と呼称される。
つまり生産活動に従事しないため、怪獣の怒り=カミのタタリを鎮める祭祀を執り行う司祭階級に属する。派手なオレンジ色の制服は、袈裟を科学時代にアップデートさせたものだ。
祭祀が最高潮になると、英雄の身体にカミ=ウルトラマンが降りてきて、願いを聞いてくれる。
阿弥陀如来を宇宙人に見立てることで宗教色を消し、科学が輝かしい未来をもたらすと信じられていた時代にふさわしい救いのヒーローが誕生した。

ウルトラ大ざっぱに言って、『ウルトラマン』はそういうストーリーだ。
そのため、ウルトラマンはライダーやガンダム、他のすべてのヒーローとは一線を画した神聖さを持つ。
何があろうと、どんなヒーローがいようと、ウルトラマンは、ウルトラマンだけは特別なのだ。
これは感覚的なものだが、分かってくれる人は多いと思う。

しかし、佐々木守回は違う。

社会の秩序を維持するために戦う科特隊が『真珠貝防衛指令』では真珠を守るために戦った。

『恐怖の宇宙線』で子どもたちはウルトラマンに「帰れ」と言い放つ。

人間の願いを聞いて戦っていたウルトラマンが、『地上破壊工作』では自分の意志で人間を助ける。

「正義のヒーローのウルトラマンは、ハヤタが洗脳されても助けてくれる」という展開はニュージェネに慣れるとなんとも思わないが、これはウルトラマンの定義を根幹から揺るがす一大事だ。
元々ウルトラマンは事故で死なせてしまったハヤタに自分の命を差し出すことで一体化した。その上で「ハヤタが困った時に」ウルトラマンに変身して戦っている。
ウルトラマンは人間を守るために戦っているのではなく、ハヤタが戦うから一緒に戦っていることになるため、実はウルトラマンは人間に対してニュートラルな立場を取っている。
阿弥陀如来=親鸞の思想を空想科学で表現することで、「天は自ら助くる者を助く」を映像化した見事な設定だと思うが、ウルトラマン自身の意志で人間を助けてくれるのでは、単なるおんぶ抱っこになってしまう。(『禁じられた言葉』でメフィラス星人に「貴様は宇宙人なのか、人間なのか?」と問われたハヤタは、ニヤリと笑って「両方さ」と答える。ここから、ハヤタとウルトラマンのアイデンティティは一体化しており、ウルトラマンと人間は庇護する/されるという不均衡な関係ではないことがわかる)

『故郷は地球』では単なる殺人鬼のジャミラを被害者化することで、ウルトラマンを加害者に見えるよう視聴者を誘導している。

『空の贈り物』では、だらけきった科特隊に、スカイドンに押しつぶされるウルトラマンの情けない姿がこれでもかと続く。

『怪獣墓場』では怪獣墓場にウルトラゾーンという名前をつけることで、ウルトラマンと死のイメージを結び付けている。

『ウルトラマン』 第34話 「空の贈り物」ゼロと見よう特別配信①【ウルトラマン基金】 - YouTube - Google Chrome 2020-07-28 22-36-18.mp4 2020_07_28 23_38_31

ベータカプセルと間違えてスプーンを掲げる有名なシーン。
これがヒーローの姿か!?

佐々木守回がなぜ問題なのか、とてもじゃないがこの程度では言い足りない。100万語を尽くして罵倒しても足りないほど不愉快なのだが、同時に安易に否定もできないと思っている。

というのも、半世紀を経てなお残っているのは、実はその佐々木守回のほうだと思うからだ。
『故郷は地球』は個人的には大嫌いだが、名エピソードとして極めて高い社会的評価があるし、映像はため息が出るほど美しい。
一般向けのウルトラマン紹介番組があれば、ゴモラやレッドキングだけではなく、スプーンを掲げるハヤタで笑いを取り、シーボーズを宇宙に送り返すウルトラマンを「倒すだけじゃなくて優しさも持ったヒーロー」と紹介し、トドメにジャミラで泣かせに走る……というのがよくあるパターンだ。
また、コメディ要素は当時の子供向け番組の水準から見れば当たり前だし(というか現在でもある)、番組内でのバラエティは、層の豊かさにも繋がる。

そんな感じで、当時ウルトラマンを見ていた人たちは、どういう空気感でこれらエピソードを見ていたのだろう?
こういうことは非言語的な情報なので、もうよく分からないんだよね……。

2.ニュージェネのあり方

ウルトラマンの持つ独自の神聖さを踏まえたうえで、昨今の①ぺらぺら喋りながら ②オモチャをガチャガチャいじりつつ ③レジェンドのパワーでフュージョンする ニュージェネはどうかというと……個人的には大賛成だったりする。

ウルトラマンを矮小化するエピソードについて色々言っておいてアレだけど、レジェンド商法も、フュージョンも、シリーズの長寿化に伴って様々な設定が付与された今となっては、そのメリットは計り知れないほど大きいと思う。
ニュージェネ独自の文化は非常に好きなのだが、一定数いる「またフュージョンか」「オモチャすぎ」という意見にはまったく共感できないわけではない。
が、そういう人たちは、佐々木守回についてはどう思っているのか気になる。
個人的には、現実での時間経過を加味することでニュージェネのオモチャ感はまったく問題なくクリアしているので、逆パターンで「ニュージェネがダメなら源流の佐々木守回はもっとダメじゃないの?」と思ってしまうのだが。

……源流といえば、『ウルトラ作戦第一号』でハヤタに話しかけるウルトラマンがカタコトだったのは、地球語がウルトラ難しいからだったのか……としみじみ納得した『ウルトラマンZ』なのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?