#264 読書日記41 石を拾うことはあっても玉を捨てることなかれ 歴史認識のアップデート
Mrs. GREEN APPLEの楽曲「コロンブス」のMVが公開と同時に炎上騒動へと発展したことは記憶に新しい。
子どもの頃に読んだ伝記のコロンブスはどう描かれていたんだっけ?と気になっていた。
夏休みに入り時間ができたので目を通してみた。
『少年少女世界伝記全集 第9巻/コロンブス、マルコ=ポーロ、ダ・ビンチ』講談社
いまだに所蔵している本だ。
第二版(昭和43年)だから、けーわん少年が7、8歳頃だ。
心躍らせながら偉人の偉業を読むことにドキドキしていた少年時代。
それが今はどうだ。
心が汚れてしまった私は、妻に叱られないようドキドキする毎日だ。
子どもが読めばコロンブスは勇気と機知に富む人であり、偉業を成し遂げたことしか読み取れない。
しかも最後の締めは、あの「コロンブスの卵」
負の要素は描かれていない。
1992年、新大陸到達から500年記念のタイミングで、コロンブスへの評価が歴史上の偉人から罪人(先住民への侵略や虐殺)へと変化したことは大きい。
新大陸到達によって始まったスペインによるネイティブアメリカン(インドと勘違いし現地人をインディオ、インディアンと呼んだ)に対する土地の略奪や虐殺の歴史は、けーわん少年には読み取れなかった。
友好的な交流が描かれているのだが、改めて大人目線で読むと、この部分が友好や支援ではなく「支配」「略奪」なんだなということが何となく感じ取れる。
歴史は支配者や戦勝者によってつくられるとはこのことか。
アメリカでは、アフリカからの黒人奴隷の大量強制移住、そして今日もなお続く黒人差別という負の側面を忘れるな、という声が各地で起こり、その後も、白人側に立った「都合の良い歴史」の見直しを迫る声は断続的に続いている。
歴史的出発点となったコロンブスの新大陸発見などの歴史評価に対しても、ヨーロッパの都合で編まれた「物語」の見直しを迫る運動へとつながっている。
私は、そのつど歴史認識のアップデートをしてきたつもりだったが、少年時代に刻み込んだコロンブスのことについては、ほぼ上書きせずにきた。
歴史の解釈は時代の流れとともに変わっていくものだということは、折に触れて学んできたものの、不都合な真実に対する意図的な改ざんは、まだたくさんあるに違いない。
何年か前(50代の頃)に読んだユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は世界的なベストセラーとして絶賛され、壮大で独創的な歴史解釈に感嘆したものだ。
人類誕生から今日までの歴史を振り返り、そして未来を予測する壮大なストーリー展開は圧巻である。
一方では、話題性を優先して科学的な正確さを疎かにしているのではないかといったハラリ批判が登場し、彼を信奉することに警鐘を鳴らず識者も少なからずいて、そうしたことが米誌カレント・アフェアーズに掲載され話題にもなった。
北海道のアイヌ民族についても根深い問題がある。
そんな例を引き合いにし、学生たちに卒論に引用する文献の査読の重要性を唱えた。
『石を拾うことはあっても玉を捨てることなかれ』
改めて自戒し、肝に銘じたい。