見出し画像

#136 読書日記21 子どもの発達格差 将来を左右する要因とは

授業で教育心理や発達心理を扱うことがある。

はて?私たち夫婦は若い頃、そういうことを気にしながら子育てをしてきただろうか?と思うのである。

『ひよこクラブ』なんかを読みながら上手い子育てをしてきたわけではない。

寄り道、回り道、紆余曲折、迷い道クネクネ・・・・・

「やれやれ、これでひと段落」というレベルには来たが、子どもがいくつになっても、心配の種はありそうだ。


若者にまつわる問題事象が相変わらず世間を賑わせている。

つい数日前、また飲食店でバカなことをやった若者(ペロペロ事件)が報道された。

一方では「いい子症候群」問題もある。

昨年末、読んだ本のことを思い出した。

子どもの発達二極化しているという指摘。
子どもの将来に影響を与える「発達格差」の実態とは?

自制心思いやりのある子、ない子。
未来に向かう」こども、「今を生きる」こども。

目の前のことを優先し、今を生きる」傾向にあるか、それとも「将来に備え、未来に向かう」傾向にあるか。

幼児期から二極化する要因が示されている。

能力が低い子どもは、将来的に健康や経済面で不利になる可能性が高い。
能力が高い子どもは、将来的に健康や経済面で有利になる可能性が高い。

想像がつく指摘ではある。
社会自体に分断が起こっているのだから、当然、子どもの育ちにも暗い影を落としている。
今を生きることで精一杯・・・・

どんな親も、思いやりのある子、自制心のきく子に育ってほしいと願っている。

「明日のことはさておき、今を必死に生きる」よりは、
「将来に備え未来に目を向けて生きる」ほうがいい。

この「向社会的行動」の格差をどう埋めればよいのだろう。

利己の対極にある利他(他者の利益)を意図した行動をとれる人になるためにはどうしたよいのだろう。

経済的に豊かだと言われてきた日本だが、相対的貧困の問題は可視化されたからといって一気に解消されるものではない。
それは支援に携わっていてずっと感じている。

著者が指摘するように、心にゆとりがある家庭で育つと、子ども自身、ゆとりを持ちながら伸び伸びと育つ。

ゆとりがないとどうなるかは容易に想像がつく。
心にゆとりを持つことの大切さは社会全体が認識している。

ゆとりを持てない階層が次々と誕生する社会。

隂山英男氏が小学校教諭時代に開発した「百ます計算」をはじめとする「読み・書き・計算」に関わる陰山メソッドが教育界を席巻したが、それだけで教育や社会が大きく変わるわけではない。

まだまだ地道な取り組みが必要だ。

氏が言うように、「努力と根性」という価値観が未だに根強く存在している。

学校教育に原因があるという指摘は、そこに長年関わってきた身としては耳が痛い。

しかし、家庭や学校だけで子どもを育てているわけではない。
社会の責任」と言うと正体が曖昧になる。

「社会の責任」と言われても、社会構成員の一人である私は自分が直接的に責められているとは感じないし「あっ、自分の責任だ!」と深く自省することはない。

「親の責任、家庭のしつけ」「学校の指導体制」「教師の資質」はどれも大切ではある。

これらについて責任を問われる経験をしてきたので、いろんな思いはある。

教師の感覚でいうと、「問題」と「学校」が常に紐付けられて、「その紐から手を離すな!」と脅されているような感覚になることが何度もあった。

紐から手を離せば子どもが不幸になる。
それは学校・教師の責任になるという強迫観念につながる。

社会が抱える問題と学校教育が紐付けられ、事と次第によっては教師個人にまで紐付けられる。

学校は学校で、子どもの問題を家庭に紐付けて打開しようとする。

堂々と保護者や地域社会に協力を求める声を上げる勇気が必要だと思うのだが、それをやると「逃げるのか!」・・・・と責められる。
無限ループか?

本書はそんなことを指摘しているわけではない。
あくまでも高校に勤めていた私の感覚だ。

学校種や児童生徒の実態によっても違うだろう。

「責任を上の学校へ順送りしている」という言い方をする人もいる。

みんな、何とかならないものかと思っている。

自分でシュートせず、「お前に任せた!」と言って、次々とパス回しでもしているのか?

そんなことはしたくない。

教職志望の学生たちと共に考えていきたい。